やっぱり文章や作品は、他人が読めるように作らなきゃいけないのか?


もしそうなのだとしたら、僕たちが、あの最初の1行目から既に難解で1ページ読むのにえらく時間がかかるどころか、結局意味を明確には理解できない哲学書や、一部の詩を、何時間もかけて食らい付いて読んでいたのはなんだったんだ?


ふざけんな。


ーー騙されていたのさーー


……。そうっぽいね。真に受けてしまったのが悪いんだ。もう、誰の文章も、読むに値するという前提を持って読むことはないだろう。他人なんてみんな嫌いだ。


情報商材にハマったかのような気分だ。

実質的には、同じと言えそうだ。

気分が悪い。

こうなったら、簡単なものや、わかりやすいものが、いかにくだらなく、頭の悪い者同士の低レベルな慰め合いであるかということを、そういった文章を正面切って批判することで僕が思い知らせてやらなければ、僕の気がすまない。

僕をそんな行動に駆り立てるのか?僕はそんな人間として生きていくのか?

なぜ、あなたに読めないものを僕が読めて(訓練したからなわけだけど……)、そんでもって、あなたに読めないようなものを僕が書いたとき、低評価を下されなきゃいけないのか?あなたには評価を下す能力も立場もない。客として、自己になんの厳しさも持たない大衆ならば、ずっと漫画だけ読んでいれば良い。

あなたの下す評価は「この文章、挿絵がない。減点。」このレベルなのだ。とどのつまり、そういうことなのだ。そうでないと言うのなら、ひとつ、読書感想文でも書いてみたまえ。それを、この僕が評価させて頂くから。内容の鋭さで腕を競おうではないか。


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