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自分で考えることが大事って、学校で教えてくれなかった。

子供のころ、私は少しだけ頭がよかった。

頭がいいというのは、「勉強ができる」ということだ。
子供時代の「勉強ができる」とは、興味を持って覚えることが人より少しだけ得意ということだ。


思えば、私は知識欲のかたまりだった。

休み時間を図書室で過ごすことも多かった私は、百科事典、「火の鳥」や「ブラックジャック」などの手塚治虫漫画や、偉人たちの伝記漫画、ハリーポッターシリーズ、図鑑……などを好んで読んでいた。なんとなく覚えている。

例えば、百科事典は何かを調べたい時に探すものではなく、アイウエオ順で順番に全てを知りたいと読み進めていた。
より詳しく知りたい、覚えておきたいと思ったものは専用のノートを作って書き留めておいた。
読んでは書く、読んでは書く、の繰り返しだが、「勉強しないと」「頭が良くならないと」と思ってやっていたのではなく、ただ単にその時の自分の趣味が「知識を得ること」だったのだと思う。

「火の鳥」に関しても覚えている。
もともと父が手塚治虫のファンだったこともあり、独特の世界観に魅了されていて好きになったのもあるが、歴史や文化、設定が毎回異なる作品は、現実の歴史や文化への興味の窓口となっていた。
例えば、「火の鳥 黎明編」でイザナギや卑弥呼、日本神話や邪馬台国について調べたり、「火の鳥 宇宙編」を読んでSF世界に興味を持ったりした。

また、「ハリーポッターシリーズ」については、魔法の呪文と効果を一覧にして覚えたり、役名と役者さんの名前、ほかの出演作をWikipediaなどを見てこれもまた専用のノートにまとめるような、覚えていくことに感動するタイプの子供であった。


そんな子供時代を過ごし、すくすく育った私は「あるものをあるものとして覚えること・記録すること」はとても得意であったものの、「その事柄に対して自分の意見を持つ」という経験をあまり積まないまま大人になっていた。

それに大きく苦労したのが、大学の卒業論文のタイミングだった。

自分で疑問・仮説を持ち、それについて調べ、自分なりの結論を持ってまとめる。
簡単に言えば卒業論文はそういうものだと思うが、私にはこの「疑問・仮説を持つ」というものがとても難しかった。

なぜなら、答えとは本を開いたりネットで検索すれば載っているものだったからだ。
どうやってそれ以上の疑問や仮説を得ればいいのか、やり方自体がわからなかった。

悔しかった。
割と順風満帆で何でもそつなくこなせる人生を送っていたはずだったのに、みんなができていることが自分にできなくて驚き、悔しいと思った。

結局、出来上がった卒業論文はなけなしの体裁を整えた自由研究のようなものになってしまい、大学時代の集大成が心残りになってしまっている。


小学校から高校までは、先生の言うことをよく聞いて教科書の内容をよく覚えれば「良い子」とされていた。

でも、大学を経て社会人になってからは、自分の頭で考えて判断し動くことが重要視される。
それが、「できる大人」なのだろう。

でも、学校の先生はそのやり方を教えてくれなかった。
読書感想文はあらすじと感想を書いただけで丸が貰えたし、自由研究はすでに課題と結果まで用意されている実験キットを使ったり、ただ調べたものをただまとめただけでも提出ができた。
何なら、「よくここまで調べたね」と褒めてくれたくらいだ。

考える練習・応用の授業が欲しかった。
数学の応用問題とはわけが違うのだから。


きっと、私と同じような方もいるかもしれない。
知識を覚え褒められてき続け、大人になって挫折を経験するような方が。

社会に出て少し経ち、未だに苦手なことではあるが、通勤時間にこうして考える時間を設けたり、考えたことをノートに控えておいたりして、日々少しずつトレーニングを自分なりにしている。

もう子供ではないから、いつまでも先生の、学校の、他人のせいにはしていられない。

「良い子」は卒業。
思考力のある「できる大人」に、早くなりたい。

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