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摂食障害での経験と感じた事「退職〜入院(1)」

5、6年ほど前、私は摂食障害と鬱で2度ほど入院したことがある。今日はその事について書き残したいと思う。


摂食障害、今やよく聞く精神病となった。
拒食症(神経性無食欲症)、過食症(神経性大食症)これらを含めて摂食障害という。(もっとより細かく言えば四つの症状に分けられる)
私の場合、拒食症から過食症になり、過食嘔吐へ移行し、今もなおその症状は10年続いている。

最も症状が悪化していたのは、25 歳の頃。
大学生活を終え、北海道で和菓子メーカーの商品開発課にいた頃。
夜中の3時まで働き、朝は通常の8時半出勤。社長のモラハラが憂鬱を散らばす狭い事務所と、目の死んだスタッフのいる製造工場の行き来をして業務をしていた。

想像を超える劣悪な業務形態、残業の日々に、私の身体はついていけず、最後に大きな製造ミスと、社長のモラハラにより完全に心の何かが崩壊して、会社に行けなくなって、辞めた。

しかしここで問題だったのが、過食にかけていた費用の工面であった。
両親はすぐにでも実家に帰ってこいというが、当時の私は変な意地があって、大学まで出させてくれたのにのこのこ帰って甘えるわけにはいかない、と、そのまま札幌のすすきのでお金の為だけに夜の店で働き始めた。


そして、50万程度を住み込みで貯めた。1ヶ月で。相手をした男性の顔なんてこれっぽっちも覚えていない。思い出そうとしてもみんなの顔にモヤがかかって全く思い出せない。全く全てが嫌だったわけではないが、もう2度としない。ちなみに旦那にはもうバレていて、バレたときは終わった。と思ったが今になって冷静になってみると、私の全てを知った上で一緒にいてくれる旦那を今は本当に愛している。申し訳ないと思ったが、当時の私にはそれしか生きる方法が思い浮かばなかったのだ。毎日を生きるのに精一杯だった。

当時の体重は、身長161㎝\45㎏だった。

心身ともに限界をこえ、私は故郷に帰らざるを得なくなった。
その頃には稼いだお金もたったの20万ほどになり、もちろん全て過食で消えてしまっていた。虚しかった。死んだ方がマシでさえあった。でも生きているのできっとまだこの世でやるべきことがあるのだろう。

実家に帰ると、家族が暖かく向かえ入れてくれた。
暴力的な父も、母と電話で話していたように怒りの沸点はそこそこ低くなり、温厚そうな雰囲気になっていた。

それから実家での療養生活が2年半ほど続くこととなる。
まず病院を探した。母と一緒に。
母は泣いていた。私のせいだと。父にも、お前が優しく育て過ぎたんだ、と母に言っていたのを聞いた。また母のせいにする父の事を呆れた気持ちで卑下した。責任転嫁、自己憐憫、依存心の三悪が満載の家族だったと思う。

父は母に責任転嫁し、母は自分のせいだと自己憐憫し、私は医者に依存していたから。これではいけないと、当時は全く思うこともなかった。家族にとっての初めての事で、全部手探りだった。当事者になると本当に視野が狭くなる。わかったつもりだったことを思い知らされる。向き合わざるを得なくなってようやく己の愚かさと稚拙に気付く。

家に帰って最もしんどかったのは、母が作るご飯を美味しく食べられなかったことだ。仕事が終わってから買い出しに行き、ほかほかの白米をたいて、手作りのお味噌汁やおかずを用意してくれた。私には絶対に作れない心のこもった料理を、私は美味しい!とその場ではニコニコして食べるが、後では我慢できずに戻していた。とても申し訳なかった。

しばらくして、故郷で一番大きな大学病院への通院と、入院治療が始まった。治療といっても、過食することから私を物理的に隔離し、認知行動療法を試みるという者だったが、ただのモルモットのような扱いをされた経験にしかならなかった。学生の研修医達の前で私の症状を自白させられ、先生からは認知行動療法の本をポイっと渡されただけで、4ヶ月間私はただひたすらベットで食べ物のことを考え、時々持ってきた本の内容を写経して、グルグルフロアを歩いて少しばかりの運動をした。

外出は、たった30分間、院内散歩という名でフロアから出ることを許可されていた。毎日、その時間だけを楽しみに入院していた。なぜなら、時間内に帰ってきさえすれば何をしても自己責任、ですまされるから。私はここぞとばかりに売店で食べたいものを買い、人の死角でむさぼり食べた。誠に滑稽であった。

院内での食事は朝昼晩の三回。
完食する事に、その場で30分、ちゃんと栄養を体に少しでも吸収させるために座らせられた。看護師がタイマーを測り、終わると知らせてくれる。
私の他にも接触障害患者が数人いたので、何人かはそのように座ったままじっとしたいた。私はわりと平然とできた。30分くらいなら余裕で完吐きできる(多少は胃に残るが)と思えば、動揺もせずにすんだ。

今思えば、これらの治療は私にとってはあまり効果がなかったのだとおもう、経験としてはかなり刺激的だったとは言える。しかしもう同じ方針での治療はしたくない。物理的に過食から隔離されても、常に考えてしまうし、約束を守れない度に自分を酷く責めるから。低血糖で倒れる度に死んだ方がマシと何回も思った。

当時の体重161㎝\45㎏\血糖値最低35mg

なぜこんなにも体重や見た目に執着するのか。
私は小さい頃から容姿を馬鹿にされて過ごしてきた。
今となってはもうどうでもいいが、育ち盛りで多感な頃にはきつい言葉もあった。言われた人は覚えているけど、言った人は大して覚えていないもんだ。そんな突発的で冷静さにかけた心ない発言で私はこんな苦しみを今も味わい続けているのかと思うと、その都度過去の知人達を呪った。1人ずつ刺して周りたくさえあった。容姿端麗な顔に傷をつけ、綺麗な体を刺し、美しい心を捻り潰したかった。が、そんな願望は無駄だとすぐに理解した。幸いな事だ。

入院中によく喋る患者さん達も日を重ねる事に増えた。
しかし過密な関係になることだけは避けた。
みな患者なので、話す事に大してアドバイスだとか意見を述べるなんてことはタブーと私の中ではそうした。実際にそうして関係を拗らせて入院中さらに体調を悪くする人がいることを聞かされたいたから。
私は大して過度な痩せでもなかったので、あなたはなんの病気で入院しているのですか?と、よく聞かれることがあった。訳を話しても「そんなふうに見えない」だとか「このフロアで一番まともに見えるね」とかそんな勝手なことを言われた。

いちいち人の言葉を間に受けていたらここでは治療できないと瞬間に悟った。みんな患者なのだと強く理解した。お互いが無意識に傷つけ合うようなことは決してあってはならない。みんな、ここに居たくているんじゃないのだから。

入院してやく2ヶ月はただその環境に適応し、いかに自分の過食衝動を少なからず満たせるだろうかということのみを考えていた。残りの2ヶ月の話は、疲れたのでまた追って書き残す。

今日はこれからまた過食衝動と向き合うだろうが、いつも私に手紙を買いてくれる人へお返事をかこうと思う。好きな絵もかこう。仕事は休みがちで今日も休んでしまったが、だからって死にたい気持ちを振り払ってまで働く必要なんてない。旦那が帰宅する頃には夕飯を作り終え、いつも通りの夜を過ごせたらそれで幸せなのだ。

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