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障害とはなんぞや

「障害」と呼ばれる状態を始めて知ったのはいつだったでしょうか。

「障害とはなんぞや」という視点は、支援をする上で出てくる疑問で、その後の支援の検討や、支援者の自己研鑽を行う上で必要な視点だと考えます。

今回は私が「障害」と呼ばれるものを知っていった経緯について振り返り、支援者として関わる中でどのように捉えるようになったかをまとめてみます。

「障害」との出会いと変遷

私は小学生の頃、道徳だか総合だかの時間に聞いたのが初めてだったと記憶しています。当時、「障害」は身体障害がある状態をイメージしていました。

その後、特に「障害」という概念を深く考えることなく高校生になり、友だちが留学先でうつ病になって帰国した、と話を聞きました。当時はうつ病との関連はわかっていませんでしたが、なんでも記憶喪失になって、言葉も出ない状態になっていたとか。私のことは覚えているとのことで、向こうのお母さんから頼まれて会いにいって少し話をすることがありました。
そこから「人って不思議だな」と思うようになり、兄弟の不登校もあって、いわゆる「心の病気」に関心が向き始めました。そこを掘っていく中で、母親はパニック障害で、母方の祖父はアルコール依存だ、という話が聞こえてきて。

高校生の後半、進路を考える頃には、「人の心とか、心の病気のことを知りたい」と思うようになりました。それらが「精神疾患」や、「精神障害」と関連のあることとはあまり感じていなかったような。

そして大学でその辺りをもう少し知り、さらに精神保健福祉士の養成校に行って、「障害とは」といったことを体系的に学ぶことになりました。

今思う「障害」とは

今は「障害」と言われるといわゆる三障害(身体・知的・精神)を認識します。
さらに発達障害、難病、高次脳機能障害、てんかんや若年性認知症も支援対象に含むので、広い意味で「障害」と捉えていると言えます。

今の私は、「障害」とは状態像と社会保障に必要な枠組みのひとつだと整理しています。

状態像とは、「うつ病」それ自体が「障害」なのではなく、「うつ病によって生活リズムが整わず、勤務できずに“困っている状態”」が「障害」であると考えている。
特に本人が困っているかどうか、そしてその状態の原因が種々の法律で決められている「障害」の定義に当てはまるかどうかが重要だと思います。

また種々の法律で決める必要があるのは、社会保障を受けられる枠組みを作る必要があるからです。
例えば福祉サービスを受けるために、障害によって働く機会を奪われないために、総合支援法や雇用促進法があります。誰でも使えてしまうと社会保障費などの財源の限界があるし、場合によってはそれらを得るためにあえてできないと嘘を吐くことが出てくるかもしれません。

つまり、「障害」は例えば生活困窮や女性、児童、高齢者などなどと同じく、その状態を「社会的弱者」と定めることに本人のメリット(社会保障)があったためにできたものだと思います。
よくも悪くも社会が仕組みとして作ったものですね。

といっても、この枠組みや仕組みがなければ「障害」はなくなるのかというとそうではありません。状態像だけが残って、社会保障がなくなれば、苦しむ人が出てくることもあるでしょう。
既にグレーゾーンの人が生まれてきていると感じる現場もあるのではないでしょうか。

とまあ、ごちゃごちゃ言ってはいるけれど、「障害」と「健常」の境目はいわゆる「スペクトラム」や「グラデーション」というやつなのだろうと思います。
ある境界線がはっきりとあるわけではなく、境目はないというやつ。

実際に障害のある方がこの後のことを聞いてどのように思うのか非常に微妙ですが、思っていることを記載します。未熟者が何かを言っている、と思っていただければ。

自分自身はどうか

さて、私は自分自身を「注意欠陥か?」と思うことが多々あります。
以前の記事で書いたように、お金の失敗があったんですね。また最近では、携帯電話のモバイルバッテリーを買おうと思って、充電器を買ってしまったことがありました(恥ずかしい)。大きな文字で「高速充電!携帯電話もPCも、外出時にはこれひとつでOK!」って書いてあるからてっきりさ。よく見ると、小さい字で「これはモバイルバッテリーではありません」と書いてある・・・。自分に嫌気が差して奥さんにフォローしてもらいました。

まあこのようなことが都度都度起こっているわけです。
他にも初めて相談業務を始めた時には、まあ電話が苦手で、相手の言っていることもよくわからずで、先輩との接し方にも悩んだので、「発達では?」と思うこともありました。

私は「障害者」なのか、と7割くらいの気持ちで考えたこともあります。
が、今はまあ、そんなこと考えても意味はないと思っています。

先程述べたように、障害と健常の間はグラデーションなのだろうと思っているからです。
誰にでも苦手なことがある。それが極端でなければ、障害か健常かは大した問題ではないのです。
また、よくよく、よーく注意をすれば私の場合は回避できることもあります。仕事上はとにかく確認・メモを意識しています。今のところ大きな失敗はないですし、なんなら正確な業務遂行を評価されています(ドヤ)。

私自身、あるポイントでは実際困っているけれど、努力でなんとかなっている。
だからそれでいい、としています。

まとめ

初めて現場に出た時に、「障害とはなんぞや」と疑問が出てくる方もいるかもしれません。端的な回答を望むのであれば、自身の所属する事業所の根拠法の定義の部分を参照すればよいのです。
しかし、目の前のAさんを見立てる時にはそれだけでは不足することがあると感じています。自分の中の主観だけではいけませんが、多角的に「障害」というものを自分の中で整理しておくことは重要だと考えます。
哲学として、かもしれません。
自身の所属事業所の「障害」に該当しない場合、Aさんは当該事業所のサービスを受けることはできません。しかし実際に困っていて、ニーズから見れば当該事業所のサービスが適切だと感じることも出てくると思います。
そうした時に、「ああこれがグレーゾーンか」と実感します。そして私の場合は、(本人が望んでいるのであれば)どのようにしてこの人を利用可能にできるかと考える必要を感じます。つまり、どうしたら障害者にできるか、と。
これは非常にセンシティブな部分です。障害者にしてしまうという危険性を孕んでいるし、そもそもそれを「してしまう」とか「危険性」と感じている私の認識が既に差別的なのでしょうが、しかし世間一般から「障害がある」という眼鏡を通してみられる可能性が出てくることは事実です。
その点を踏まえて、「グレーゾーン」を認識した上でどのように対応するか、そこにどのようなメリットやデメリットがあるかを整理するために、支援者自身が「障害像」のようなものを持つことは重要ではないでしょうか。

私自身が障害かどうか。実際に何か検査をしたわけではないのでね。何とも言えませんけれども。
今「精神障害」とか「発達障害」と言われている根拠は精神科での診断結果なので。
専門ではないのであるところで知識が止まっていますが、科学的には脳内物質の過剰放出または欠乏や、脳の構造の違いがあって生じているのでしたか。
そういったところの定義で見れば、どこかに境界線があるのでしょうけれどね。

私は私自身が障害かどうかは別に気にはしていない(それは困り感が薄いからでしょう)。
私は難病患者ではある。難病助成を受けているので社会保障の恩恵を受けています。ありがとう、私の他の被保険者の皆様。私も被保険者なので、誰かを支えていると思うことにします(毎月社会保険料高い!と思っている)。
でも、日々私は私を「難病患者」とは思っていない(これも今は症状が落ち着いているからでしょうが)。
同じように、Aさんと対した時にはもちろん「○○障害のあるAさん」という視点で見るけれど、それだけではなく「一児の父のAさん」とか「30代男性のAさん」、「製造業のAさん」、「ゲームが好きなAさん」など、「Aさん」を全体像として捉えたいなと思っています。当たり前ですが、人と人として接するのがベースですからね。

これから障害福祉の分野、特に就労などのいわゆる障害が軽度の方と接する分野の方は、「障害ってなんだ」と思う瞬間が来ると思います。
どうかその瞬間を大切に。そこだけにこだわる必要はないですが、視点のひとつとして、支援や自身の考え・価値観を考えるきっかけにしてみてほしい。

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