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社会人と”褒められたい”の考察

社会人を10年程やっているが不思議に思うことがある。

それは「褒められることが少ない」ということ。

これはうちに相談に来る人がたまに言われることでもある。
「自分はちゃんとできているでしょうか」
「職場の上司から注意もされないし、何も言われないんです」
よくよく聞いていくと、「褒められたことがなくて・・・」というもの。

といった相談に対してよく返すのは、「できているうちは何も言われないものです。何も言われないってことは、できているってことですよ」とか「社会人ってできているのが当たり前で、できていないと注意、できていると静観ということが多いですよ」という言葉。

ふと自分の身に置き換えても、相談に来る人と同じことを思う。
「何も言われないけれど、自分はこれでいいのか?」
その度に自分が返してきた上の言葉を自分にも返すのだけど、やはり釈然としない。

褒めてはいけないのかと言われるとそうではないと思う。思いたい。
他の職場も同じだろうか。少なくとも私が勤めた2ヶ所はそうだし、同僚も同じ質問には同じ回答をしているから多くの社会人がそうなのかなと思っている。
褒めることにデメリットはあるのだろうか。だから社会人は褒められず、上司は褒めないのだろうか。

なぜ、社会人は褒められないのだろうか。少し考えてみようと思う。

バスケットマンくらい褒められたい。

褒められた経験

私自身の記憶を掘り起こす。
思いつくのは以前の職場で先輩から数回、今の職場で上司から数回は褒められた経験がある。
前者は明確に「褒められた」と思う。「○○に取り組んでいて偉いね」という言葉だったと思う。新卒だったし、先輩とは10歳くらい離れていたからということもあるだろうか。
今の職場では明確に「偉いですね」と言われたのは1~2回だろうかな。自発的に掃除をしていた時だと思います。その他には上司と私、後輩の3人で飲みに行った時に「だからなすさんはすごいんですよ」と上司が後輩に伝えていたことがあった。それに近いものが数回だろうか(それを褒められたと思っている)。

評価はされていると思う。仕事を任されるし、仕事に口を出されることも止められることもないし、評価面談では「伝えることはないので今の通り続けてください」と言われるし、上司の仕事に意見を求められることもあるので。
でも明確に「褒められた」と思うことは少ないんだなぁ。

“褒められたい”は幼稚か

褒められたい、ということは恐らく、自分の言動、働きに対して対価がほしいと思ってのことだと考える。
とすると、一般的に仕事の対価は給与となる。給与をもらっているのだから、対価はすでに得ている。それ以上を求めている、それも給与ではなく承認の言葉を。
これは幼稚だろうか。
給与という対価に上乗せして、俺を気持ちよくさせろということなのだろうか。
前述したように、仕事を任されるなどして評価されているとは感じる一方で、さらに明確に言葉として伝えてほしいと思っている・・・。

たまに自分って乙女かな?と思う。
「好きって言われないと伝わらない!態度じゃなくて言葉にしてよ!」というやつだろうか。あ、なんか30代の男性である私がそんな精神構造でいるとすると恥ずかしくなってきた。

実際のところは、給与が評価に見合っていないと思っているのだと思う。これもまた自意識過剰なんだよなぁ。
だからその不足分を言葉にして対価を提供しろと考えているのかもしれない。
これはこれで何というか、自己評価高すぎマンだと思えてきた。うえ、我が事なので気持ちが悪い。

褒めることのデメリット

一方で上司の立場に立ってみる。
褒めないということはなぜか。デメリットを感じているのか。

考えられるデメリットは何か。
ひとつは褒めることで調子に乗る可能性か?
褒めるとその行動は強化されるのが一般的だと思う。無理に褒めることで調子に乗って行動が過剰になるかもしれない。

もうひとつは周りから贔屓しているように見られる可能性があるということか?
正直早々褒めるところがない人もいる中で、頻繁に他の人を褒めていたら贔屓に感じられるかもしれないし、褒められない人はモチベーション下がるし、何ならパワハラ的なことにもなりかねない?
といって無理に褒めれば前述した通り変に調子付くかもしれない。

自分はどうか

少し視点を変えて、自分が褒める相手は大抵が後輩だと顧みる。
年齢が自分より幾分若く、かつ経験も浅い人。そういった明確に“差”がある人に対して私は「偉いじゃん」とか「いいね」とか伝えている。つまり褒めている。

一方で経験が自分より浅く、悩みを相談してくれる相手の中でも年齢が明確に上だったり、ちょっと上、ほぼ同じだったりする相手には「偉いじゃん」とは言わない。というか言えない。

「○○で悩んでいて、自分ではこう取り組んでいます」

と同じことを言われても、明確な後輩には「おっ、偉いじゃん」と言えるが、そうでない相手には「なるほど。いいじゃないですか」くらいだ。これは自分の中では「褒める」というより「肯定」している程度の言葉だ。

つまり、明確に相手と縦の関係で、下に位置する相手には褒めることができると言える。
相手を下に見ているわけではないし、舐めているつもりはないけれど、どこかで「対等ではない」と思っているのかも。生暖かい目で見ているというのか・・・。
褒められない相手に対しては、対等かそれ以上と思っている。もちろん経験が浅いので、助言を向ける相手だと思っているけれど、少しニュアンスが違ってくる。

まとめ

「褒められない」ということが「褒めてほしい」というところから発生している不満だとすると、現在もらっている対価に不満があるということなのかも。
それが正当な不満なのかは主観ではわからない。会社からの評価という客観的な評価が給与なのだとすると、それに不満も満足もない。そういう評価軸の会社なのだと理解するしかないでしょう。私を評価するのは私ではなく、会社という組織ですからね。

褒めることで相手のモチベーションが上がるかもしれないけれど、一方で調子付いてしまうかもしれないし、周りの目も気にする必要があるかもしれない。
「褒める-褒められる」という関係は縦の関係だとすると、褒めないということが一定の評価の裏返しなのかもしれません。

褒めることはいいことで、自分が将来上司になったら沢山部下を褒めよう、と思ったこともあるけれど、こう考えてみるとなかなか褒めるのって難しいのかもしれない。
「上司-部下」は縦の関係ではあるけれど、年上の部下、経験のある部下に対して明確に縦の関係をぶつけるのも、それはそれで角が立つことがあれば、違和感のある構造になることもあるでしょう。

であれば、「褒める」というよりも言動に対して「ありがとうございます」とお礼を伝えたり、「お疲れ様です」と労ったり、「大変ですよね」と共感したりすることで、給与では表せない精神的な対価を支払ってもいいのかもしれない。

別に褒められたいわけじゃないのよ。そういう何気ない一言がほしいのよ。
結局はそういうことなのよ。
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