仕事のこと⑦~変わらない本人に向き合う~
自分たちのような支援者はよく「環境」に対して働きかけをおこなう、と自分の支援を説明します。
何か困りごとがある時に、その原因は環境にあると見立てるわけです。ここでいう「環境」は例えば生活の場や働く場もそうですし、隣人や同僚などの人的な環境もあれば、朝や昼など時間でもあるでしょう。また服薬の有無や睡眠時間などもひっくるめて「環境」として見ているところがあるかもしれません。
それらの「環境」に働きかけて、つまりは「環境を変化させて」困りごとが改善するかを確認していくわけです。
しかし実際のところ、その「環境を変える」ためにも本人の「意識」や「行動」を変化させることも重要になることがあります。
つまり、環境を変える準備・お膳立てをしても、本人がそれに乗っかって来なければ、環境が変わらないことがあるということです。
ソーシャルワークの本筋とは違うかもしれませんが、本人の意識や活動、もしかすると価値観に働きかける必要があるのではないかと考えています。
しかし、それは非常に難しいことです。本人は様々な理由で変わることができない。わかっているのだけど、支援者としてその様子にイライラすることもあれば、残念に思うこともある。
今回はなかなか変わらないまたは変われない本人にどのように付き合うか、その状況を振り返り、何を感じ、どのように対応していくといいと感じているのか。現在の感じ方をまとめていこうと思います。
変わらない(変われない)人たち
理由として多く感じるのは、変わる必要性を実感できない人が多いという点でしょうか。
これは説明する側の問題でもあると思いますが・・・。
様々な障害があると、①認知が障害される場合がある②経験が少ないという2点が大きく影響してきます。
変化していく人は、ある時に自分の言動に疑問を持って、周りを観察(実際に人を見る、ネットで検索するなど)してよりよい結果を生んでいる言動に近づけようとしたり、周りと対話したり、自分自身で反省したりして、よりよい結果を導くように言動を修正していきます。
ですが、①や②が絡み合うことで、自分の言動に問題を感じられなくなり、そうすると周りを観察することもなくなり、そもそも「よい結果」という基準自体が既に周りとずれて来たりすることが出てきます。
つまり、「自分は正しい」とか「間違っていない」といった学習を深めていくわけです。そもそもそう思っている人に対して、「周りをみてみろ」とか、「なんでわからないんだ」と言っても、周りの言動に基準を合わせていくのは難しいと思われます。その状態が続いているために、周りとのずれが大きくなり、周りはストレスを貯めて本人に当たり、または無関心になり、本人はなぜ怒られたか理解できず、軋轢が深まっていくわけです。
「こうしてほしい」と言われても、その理由がわからない。「間違っている」と言われても、それがなぜか、どの辺りが間違っているのかわからない状態で、上辺の理解で対症療法的に対応していることもあるので、応用が利かず、似たようなことで失敗しているように感じます。そうなると「変わらない」とか「変われない」と評価されてしまいます。
支援者が対応しても同じようになることがあります。本人の理解を確認しながら話を進めても、急に壁が現れる感覚というのか、
「朝起きられていないですね」
「はい」
「だから仕事を辞めることになりましたね」
「はい」
「じゃあ、起きられるようにまず訓練しましょう」
「仕事になれば起きられます!」
みたいな。いやいや、離職の理由を確認したじゃん、みたいなね。これはあくまで例ですし、例として正しいのか微妙ですが。
もちろん本人がそう答えている理由は他にもあるわけですが、それらを理詰めしていって、訓練するという提案をすると、急に壁が現れる。これは根本的に「訓練は必要ない。訓練は嫌だ。早く働きたい。自分は働ける」という考えが本人の中で大きいからだと思われます。
かといって、ずっとこの課題が残り続けている本人。このまま進んでも同じ理由で退職に至ると見立てるわけです。しかし、その共通認識が持てない場合は少なくありません。
支援者が何を感じるか
こうなると支援者は困るわけです。ともすればイラっとして理詰めに拍車がかかるわけです。はい。私の悪いところです。
根本的には、このままいくと離転職を繰り返すことになる。まだ20代の彼には早くそのことに気付いてもらって、訓練や治療を進めてもらって、長く働けるようにした方が、彼にとってはハッピーなのでは、と考えているのです。そのこともまあ、伝えるわけですが。
本人としては今すぐ就職することがハッピーなのです。「就職がゴールではない」と本人も常々言うものの、実感として肚に落ちていないのでしょう。
おそらく支援者は「なんでやねん」という状態です。こんな理由でこれを提案しているのに、その理由を踏み越えてきやがる!みたいな。
でも、本人にとっては正直理屈じゃないのです。いや、本人なりの理屈があるのです。だからどれだけ支援者がこれまでの経過を振り返って提案をしても、共通認識は持てず、支援にも同意しないわけなのです。
次に無力感が支援者を襲うかもしれません。
こんなに資料を作って、図表も使って、本人の理解を確認しながら伝えたのにとか、ああ、このままいっても苦労するだけなのにとかとか。
そして思うわけです。じゃあ本人の思うままに動いてみればいいさ、と。
ここに至るまでが結構早くなった私は冷たいのかもしれません。
ただ、重要なのはこの時の支援者の態度だと思います。
放り出すのではなく、見守るスタンスとでもいいましょうか。
どう対応するか
自分の場合は、可能な限り本人の気付きを促せるように資料を作り、説明をおこないます。本人の感じ方を確認しながら、一般的にはこう考える、みたいないわゆる「一般論」も交えて伝えていきます。関係性にもよりますが、自分の主観も伝えます。本人の様子をみていて、こう感じた、とか、企業の対応をこう感じていたとか。
そして本人がこのまま進むと、どのようなリスクがあるかを伝えます。病状の悪化や、結果として不利益になる可能性、もしくは上手くいった時(上の例でいうと就職できた時)に残る課題などなど。
それらを本人が「わかった」と言った上で判断したことはもう、見守ろうと思っています。
そのために、リスクに対して自分たちができること、できないことを伝えます。本人がある支援を希望しても、本人本位が過ぎる時には、「できない」と伝えることもあるでしょう。
安易にできると言っても、期待させたり、信頼関係を失ったりする可能性がある。そのことを伝えます。
そして、経過を報告してもらい、一区切りついた時に、一緒に振り返りをすることを提案します。それすらいらないと言われたら、常套句。
「また何か困ったことがあれば連絡ください」の出番です。
まとめ
変わらない(変われない)のには理由があります。それは本人なりの理屈が根底にあるのです。しかしこの理屈が曲者で、一般的には理解されにくいもの、根拠に乏しいものであります。本人を応援してあげたいけれど、根拠のないものを企業担当者といういわゆる「一般論者」が多い相手に理解してもらうのは難しいのが実際のところです。
いくら説明をしても、ふいに現れる壁がある。この壁はなかなか壊すことができない印象。何度も同じ失敗を繰り返して、ようやく本人も疑問が持てれば御の字。
この「見えている失敗」に向かっていく本人を見ているのは、心配もすればイライラもします。「なんでこんなに丁寧に説明してもわからないんだ」と思うこともあるでしょう。でも、それを言っても仕方のないことです。実際、丁寧さが足りていない可能性もあります。
ここに支援の限界がある。思いつく限りを尽くしても、まだ足りないのか。それとも本人側が頑な過ぎるのか。いずれにしろ、この壁を取っ払えないのならそれが支援の限界です。そこから先、望まないことをさせても本人との関係性を損なうだけである可能性が高い。
であれば、本人が思うままに進むのをつかず離れず見ていようと考えています。
なので、「また何かあったら連絡を」という常套句が出てくるわけです。この一連の考えがそもそも「逃げ」とか「自己満足」と言われてしまえばそこまで。ですが、実際に支援に関わっていく中で、こういう決着が少なくないもので。
不全感は残るけれど、支援機関ごとの限界がある。それは個人で決めるものでなく、機関としての判断。そこに至るまでに自分以外の支援者、上司と検討し、線を引く。仕事にしている以上、そういった判断は必要だと感じています。
できるのは、自分たちだけでない、チームとして支援が切れないこと。自分たちは関われなくても、他の機関の関わりが続くのであれば、こちらの支援の顛末は共有し、支援者同士は緩く繋がっていくしかない。
変わらないと連呼してきたけれど、ふとした時に肚に落ちることもあるようで。それは退職の際に上司から言われた一言や、数年度にふと思い至ることもあるようです。そこから再度支援を希望された時に、円滑に支援に入ることができるよう、少なくとも悪い印象で終わらないよう、工夫することは必要なのかもしれません。
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