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稔 第7回|家のこと

このマガジン「稔」は、1955年生まれの父・稔が半生を振り返るエッセイです。執筆時期は2013年、57歳。
<バックナンバー>
第1回|M君とソフトボール
第2回|30年前の帰りは返したぜ。
第3回|蒲田のK子さん
第4回|エロ映画館
第5回|スキーと連れ合いの話
第6回|ピンボール

このネタは地元・足立区新田の話題が多くなり、内輪話になることをご容赦願いたい。昭和58年、私27歳、連れ合い24歳で結婚し、新居を探すことになった。私は次男、連れ合いは長女なので婿養子縁組を見据えていたが、すぐに行うのではなく、仕事もこれまで通り2人とも東京で続けることになった。

職場に近く、家賃がお手ごろ、かつ非木造という条件で探したところ、足立区新田の鉄骨3階建ての3階、6畳の居間に3畳のキッチンからなる2K、面積32㎡、家賃5万5千円の物件があり入居した。その頃の新田は、現在ハートアイランドと呼ばれているエリアに、トーアスチールという広大な鉄鋼関係の工場があった。川に挟まれた地形に広大な工場があるため、道路は工場に通じる行き止まり状のものが多かった。アパートを出て左に行けば工場に突き当たる。新田自体がトーアスチールの企業城下町であり、我が家の隣の住民も工場従業員だった。その隣人の同僚は、近所の迷惑も顧みず、よく道路から隣人の部屋に向かって「○○さーーん」と大きな声で飲みにいくのを誘っていたものだ。東京の真ん中ではこのようなことは少なくなってきている時代だったが、“東京の田舎”という土地柄を表してもいた。

昭和59年に長男が誕生した。オムツは、当時は現在ほど珍しくなかった布オムツ。夜はオムツを洗濯して干すのだが、ウンチで汚れた布オムツの下を洗い、洗浄液へ浸け込むことなどがこのアパートと重なって記憶に残っている。

昭和61年から10年間は、同じ新田にある分譲マンションで暮らした。マンションは新田にできた分譲マンション第1号。このマンションで生活している間に、長女、次女、三女が誕生した。前アパートが結婚生活をスタートさせたという意味で印象深いが、この分譲マンションは家族が増えていく中で、私も30歳代のいわゆるバリバリの頃で、さまざまなことを経験をした。子供の成長や連れ合いとのやり取りなどで喜び、怒り、悲しみ、かつ、よく酒を飲んだ思い出がマンションに染み付いている。

このマンションでは理事長もやらされた。各階ごとに理事は順番で務めることが決まっている。しかし、理事長は順番というわけにはいかない。マンションの管理人と理事長は前々年あたりから、全85戸の中から、次期理事長の人選に頭を悩ませる。私に理事長の狙いを定められてしまったというわけである。理事長は、スイカ割り大会や一斉清掃などの行事、共有部分の問題、その他諸々の物事を解決していかなければならない。野良猫がマンションにうろついているという苦情があった。その時は、ある理事の方と猫を挟み、うちで待ち伏せをして捕まえて遠くのほうに連れて行って放したこともあった。

厳しい苦情を受けた話をする。ある平日の午後のことである。小学校や幼稚園から帰ってきた子供達がマンションの敷地内や廊下に何人かいた。できたばかりの分譲マンションなので子育て世代が多い。子供のことなので、廊下を走ったり、大きな声で話したり、じゃれあったりしていた。そこに我が家の隣に住んでいるNさんの奥さんが出てきて私に言った。
「子供達が走ったり騒いだりうるさいので、静かにさせなさい。あなたは理事長でしょう。猫なんか構ってっていないで」
私は「すいません。理事会で話し合ってみます」と返した。その後もNさんは、あーでもないこーでもないと内容は忘れたが濃い化粧の顔の目をつり上げて、私をビシビシ攻めまくっていた。昼寝の邪魔をされたのがよほど悔しかったのだろう。私は防戦一方であった。理事長とはいえ、理事会あっての長である。私は理事会でこのことを話した。そこで、あることに気付いた。

(Nさんも理事じゃん~~~。理事会に1回も顔を見せないけれど。文句を言うほうの立場ではなく、言われるほうの立場じゃん)

昼間に廊下を走る子供達が悪いか、Nさんの意見がオーバーなのかは、この場で判定や断言はしない。ただ、Nさんも理事なのだから、当事者意識を持ってどうしたら良いか、子供達との共存共栄の道を模索してほしかった。
この分譲マンションには平成7年まで入居し、その後、現在のマイホームに引っ越した。

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1955年生まれの父・稔が半生を振り返って綴り、娘の私が編集して公開していくエッセイです。執筆時期は2013年、57歳でした。

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