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稔 第1回|M君とソフトボール

私が生まれたのは、東京の墨田区向島という所である。

南に行けば、あの世界の王さんを輩出した本所、錦糸町地区。今ではスカイツリーで一躍注目を浴びている押上・業平地区も歩いて10分ほどの距離だ。西に行けば隅田公園、さらに橋を渡れば台東区浅草。浅草にはデパートの松屋があり、東部電車の浅草駅は松屋の2階部分であった。今では駅ビルなど珍しいものではないが、当時、隅田川を渡った電車が厳かに松屋ビルに吸い込まれていく様は、近未来を見ているようでワクワクした気分になった。東部電車に乗って母と一緒に松屋に買い物に行き、上階のレストランでお子様ランチで食事をすることが幼少の頃の私の楽しみだった。

隅田公園には少年野球場があり、近所には子供が草野球をする程度の空き地もあり、その一帯は野球やソフトボールが盛んであった。もっとも当時はサッカーのJリーグもなく、テレビゲームもなく、子供のやるスポーツや遊びの類が今とかなり異なる。遊びといえば、缶蹴り、ベーゴマ、メンコ。スポーツなら野球が王道だった。

私の通った言問小学校の高学年男子にとって、夏の一大行事は町会対抗ソフトボール大会。行事という軽い言葉では表し難いくらい、そこで活躍することは、子供心に国体やオリンピックに匹敵するほどの意味を持つ。私は向島四丁目北町会に属していた。同じ町内に同級生のM君がいた。M君は野球が小学校で一番うまい。背丈は私よりやや低いが、ほどよく高い(私の身長は学年で1番か2番であった)。スポーツ万能で、勉強もガリ勉ではないがそこそこにでき、つぶらな瞳で、日焼けした健康的な容姿も兼ね備えていた。M君は北町会のソフトボール部のキャプテン的存在であり、同時に学校内でもヒーローであった。

M君の家は、おでんの材料を製造する工場を営んでいる。屋台のおでん屋や小売店、スーパーなどが、そのおでんを仕入れに来る。1階が作業場、2階が自宅になっている、木造2階建てだ。2階といっても中2階で、お城のような急な階段で2階へ上がれば、2階の部屋の窓から工場内を見ることができる。増築を繰り返したであろうその建物の下見板貼りの外壁は、こげ茶色に変色していた。今あるとすれば、レトロで懐かしさを感じる建物である。

1階の作業場で、おでんを揚げたり茹でたりして作っている香りが2階へ立ち上ってくる。私は、おでんが好きなのでこの香りが心地よかった。喫煙者がたばこの匂いを身体に残すように、2階に暮らしているM君の体には、おでんの香りがほのかに染み付いていた。しかし、それでいじめられるようなことはなく、堂々を小学生生活を謳歌している。ある日、M君宅に遊びに行っているとき、下の工場でイカ天がちょうど揚がったらしく、おやつとしてごちそうになった。ウスターソースが合うんだとM君。出来たてのイカ天をウスターソースで食べた。

「う、うまい」

おでんを汁なしで食べたことがなかった。揚げたてのイカ天を初めて食べた。ウスターソースとおでんをいう組み合わせは考えもしなかった。

話はソフトボールに戻るが、町会の方々のバックアップ(当時はそれほどありがたいと思わなかったが、町会役員の方が無償で小学生の行事に協力するのは大変なことである)とM君の活躍、少しだが小生のがんばりで優勝した。私は野球がM君ほどうまくはないが、同学年の男子60名中ベスト8くらいに位置していた。町会チーム単位でいけばM君に次いで2番目にうまい。小学生同士の野球のチーム作りとしてこの序列は大変に重要である。チームのベスト3ぐらいまでがチーム力のために重要で、人間として扱われ、あとは極端な言い方をすれば雑魚と思われる。だから、M君は私のことを人間として扱ってくれた。M君の名誉のために申し添えるが、M君は決して雑魚でもぞんざいに扱わなかった。私のことを自分と対等に評価してくれたという意味である。

M君はカルチャー面でも情報察知が早かった。「加山雄三ってカッコいいよね」とM君は言って、「夜空の星」のレコードを小さなプレーヤーでかけてくれた。ステレオではなく、レコードプレーヤーで。

「ぼくの行くところへ~~~ついておいでよ~~~。夜空にはあんなに星が光る~~〜」
「ショック(カルチャーショック)。いい」(湘南サウンドに初めて触れた)

若大将シリーズの映画も夢中で見た。大学生活はスポーツと恋で最高だ、と思った。憧れの加山雄三は当然、共演の星百合子とプライベートでも結婚すると本気で思っていた。

ちなみに映画館は向島の隣の寺島にあった。床はコンクリート、椅子は壊れてバネが飛び出しているものもあった。なんとなく便所臭い。禁煙ではなく換気も充分でないため空気は淀んでいる。そんな事も一向に気にならずスクリーンに集中していた。

中学に入り、M君は親の都合によりどこかへ引っ越してしまった。その後、一度も会っていない。あとから聞いた話では、M君の自宅と思っていた「おでん工場」はM君のお父さんではなく親戚が営んでいるものだった。中学からは別の家に行く事情があったらしい。M君は、そんな家庭の事情があることなど微塵も見せたことはなかった。

たぶん、M君は私の事など忘れてしまっていると思うが、小学校の時、ソフトボールや加山雄三など良い思い出をくれたことを感謝している。

ユーミンの「生まれた街で」から。
生まれた街の匂い やっと気づいた
もう遠いところへと ひかれはしない

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1955年生まれの父・稔が半生を振り返って綴り、娘の私が編集して公開していくエッセイです。執筆時期は2013年、57歳でした。

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