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哲学の話①差別はなぜいけないの?

「それは差別発言じゃない?」「今のはoffensiveだよ」「あいつはレイシストだから」

グローバル化が進み、あれほど閉じた世界だった日本でも、個人個人に対して世界基準の発言が求められるようになった。日本では問題無いとされていたものが、海外で批判され、それがさらに逆輸入されて炎上するという出来事もそこまで珍しいものではない。

日本人にとって「差別」というのはあまり馴染みが無い概念だと思う。人種差別がいけない、Black Lives Matter、と言われても実はあまりピンと来ていない人も多いと思う。これはそもそも外国人と触れ合う機会が、特に東京に住んでいる人以外は圧倒的に少なく、また歴史的にアメリカのような心をえぐるような差別のストーリーが展開されてきた、ということが無いからだと思う。(実は在日韓国人の差別の歴史は本当にひどいものであるが...)

ただ、差別というのはもっと広い概念だ。例えば、学歴で見下すのは差別だし、性別が理由でグループに入れないことも差別になるし、若者だからと見くびるのも差別に当たる。

しかし、学歴で企業がフィルターをかけたり、顔がいい子を受け付けに採用したり、年齢が若い人をポテンシャル採用で優遇したりというのは果たして差別なのだろうか。

差別ってなんだろうか。

悪くない差別っていうのもあるのだろうか。

よく言われるのは、「差別というのは、合理的な理由に基づかない区別のこと」という定義だ。ただ問題なのが、「合理的な理由」とは一体何なのか。初めて見る肌が黒い人間、顔が怖い人間、服装が汚い人間に対して恐怖を覚えて走って逃げてしまった場合、これは非合理的な理由なのだろうか。家柄がしっかりしていた方が、その人が周囲の目を気にしなければならないために、変なことをする確率が低いと考えたとき、それは非合理的な理由なのだろうか。

人を見た目で判断するなという言葉に従えば、銃を片手に走ってくる黒づくめの男達に対してどういう行動がとれるのだろうか。

人は偏見に頼って生きている。身の回りにあるものや起こる出来事に対して常に予測して動いている。ひどい臭いがしたら、感染症の恐れがあるかもしれない。怪しい人を見たら、自分に危害を加えてくるかもしれない。顔が悪い人は、自分をひがんでくるかもしれない。収入が低い人は、犯罪に走るかもしれない。

偏見というのは、根拠の裏付けのない決めつけといわれるが、ではその根拠というのはいつ十分になるのか。そんな基準は存在しないし、そもそもどうやってそのような情報を集めるのか。


「差別がいけない」という価値観は実は自己矛盾している。差別をする人を差別しているからだ。差別という言葉は、哲学的につきつめると、あまり意味がないものだ。

では人種差別を容認していいのか?

それは別問題だ。「差別だからだめ」といった安直な理由で非難するのは差別的で、理由にならないというだけのことだ。ではどういう基準を用いればいいのか。

恐らくだが、今の世の中の差別という規範に対しての倫理学的な基礎づけは、「規則功利主義」にある。功利主義というのは「最大多数の最大幸福」を目指すもので、聞いたことのある人が殆どだろう。「規則」功利主義というのは、個別のケースを判断するのではなく、ある規則(ルール)があった方が全体の幸福量が増大するのであれば、そうした方がいい、という倫理的な基準だ。

これは「差別がいけない」に当てはめると、確かに「差別がいけない」自体には何の合理性もないのであるが、恐らくは現実的には、こういったナラティブが世の中に蔓延っていた方が不幸は減る。幸福が最大化される。そんなような気はしないだろうか。恐らくアメリカでは確実にそうだろう。

では日本では?

もしその答えがNOなら、それはこの突然出てきた「差別はいけない」という言説は、日本にとって害だということだ。否定すべきだ。潰すべきだ。

しかし、もしその答えがYESなら、どうすればいいのか。前述のとおり人間は偏見の生き物だ。思い込みを無くして、全く予測無しで生きることは不可能である。ただし、もしこの考えが規則功利主義の基準によって正当化されているのであれば―—あなたはその「差別がいけない」というなんとなくある風潮を守らなければならない。それが論理的に破綻してると思っていても、ないよりはずっとマシなのである。

ただし、今までの議論で見てきた通り、この基準は住む世界、住む場所によって答えが変わりうるということだ。「差別はいけない」という言葉がなんらかの萎縮を生んでしまって、また同時に日常的に世界で言われている「差別」というものを「差別」だと感じておらず、実害を受けていない人が大多数なのであれば、「差別はいけない」という言説が無い方がいいことになる。

また、「差別がいけない」という風潮が「どのくらい」強い方がいいのかというのは、これも最大幸福お実現できる程度ということになる。

今のアメリカのテレビ番組は昔と比べてはるかにつまらなくなってしまったという。ただ、日本のテレビ番組は、確かに昭和と比べてぶっ飛んだ企画はあまりないが、アメリカと比べるとまだまだ面白いといわれる。これは、各種動画サイトで字幕付きの日本のバラエティ番組を視聴するアメリカ人が多いことからわかる。

これから日本はどのような方向へ向かうのだろうか。なんとなくふわふわぼんやりした差別反対の風潮を守っていくのがバランスがいいのか。それともさらにその風潮を強化していく方が最大幸福を実現できるのか。

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