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人材は群生する

世界の自然紀行番組で、高さ100mを越すような巨木の森が紹介されたことがあった。

ビルの階高で言えば20階から25階という高層に匹敵する、圧倒的な高さであった。巨木の森が成立する一つの理由として、群生するから強風にも耐えて成長できたと解説していたが、たしかに、周りが低い木々中に、一本だけ高木が聳えている風景は少ない。

人間の社会でも、どうも人材と言うものは、単独に出るというよりは、ある時期ある場所に輩出する傾向があるようだ。相撲界では若貴曙などが花の二八年組と囃されて一時代を画した。会社、官庁でも何年組という呼び方があって、ある年次の入社連中がとりわけ優秀だったりして、先輩たちが飲み屋で「今年は豊作だ」とフレッシュマンを肴にしている風景も見かける(当の先輩たちもかつては豊作とか不作だと言われていたのだろうが)。

人間の才能というものは、都会であろうと田舎であろうと、誰でも本来は似たり寄ったりだと思うが、相互に影響しあう環境がうまく設定された場合には、だれか一人が飛びぬけて伸びて行くと、必ず他の者が負けじと頑張って、当人たちも自覚していなかった才能を開花させる。人口370万、日本人口の3%しか占めていない静岡県が、かつてサッカーのワールドカップ代表選手の実に半分近くを出したのは、比率から見ても異常な集中ぶりである。これは、生まれつきの才能が集中したのではなく、才能を発見して育てる「場」があるのだといえよう。

もしサッカーへ進まなかったら、堅実な地方公務員か地元の中小企業に勤めながら兼業農家をやって、一生を送ったかもしれない少年たちが、世界に羽ばたく高名な選手になっている例が身近にある。「あの家の子がねえ」と感嘆するとき、才能というものは人知を以って計りがたいと思わざるを得ない。

才能は有る無しではなく、発見するかどうかである。更に踏み込んで言えば、発見のきっかけの問題ではないかと思う。沸々とたぎるような空気が充満している場では、偶然の出会いが、埋もれている能力や才能に気づかせ、そこから人材が生まれてゆく。

逆説的に言えば、我々多くは、皆、ちょっと何かが間違っていたら、天才であったかも知れない、雑木なのである。

☞『迷いの時代に』より「人材は群生する」


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