見出し画像

ポジティブな期待が重荷になってしまうとき

実家で自炊をしなかったわけ

 一人暮らしを始める前は、全然自炊なんかしないと思っていた。私の家の徒歩30秒にイタリアンが、駅の近くには無数のレストラン・居酒屋がある。
 それが今や、ほぼ毎日自炊をしている。
 理由はただ一つ、食事のためだけに外に出るのが億劫だからだ。最近はほぼリモートワーク、休日も家の中で過ごすことが多いので、わざわざ食事のためだけに着替えて化粧をするのが面倒くさい。都内なので、すっぴんでふらふら歩くのもはばかられる(すっぴん状態でイケメン・美女を見かけた日にはもう、生きててごめんなさいって思いませんか。もちろん彼らにとってこちらは通行人にすぎなくて目にも入っていないと思うのだけれど)。
 それに加えて元々の節約癖が加わった。スーパーで1週間分の食材を揃えて、たくさん買ったなーと思っても、2000円に届かない。えっこれは2回分のランチで一週間分の食費になってしまっていたわけ??と気づいたからだ。それまでは野菜は高いし作る手間も考えたらプロに任せたほうが安上がりだと思っていたけれど、野菜は冷凍など工夫すれば意外に長持ちするし、カップラーメン以外にも冷凍食品など自炊を助けてくれる商品はたくさんあった。(ただし高度な料理はやはり外食にすべきだと思う。我々は料理人を目指しているわけではないので日常の腹を満たす料理だけ作れればいいのだ。)
 最近はリモートワークの合間にキャベツを刻んだり野菜を炒めたりするのがストレス発散にもなっている。というわけで、料理が嫌いというわけではないことが証明された。なぜあんなに実家にいる時に自炊をしなかったのかを考えると、料理が嫌いとか億劫だとかではなく、「両親のために料理を作る」ということが嫌だったのだと気づいた。

「お前らのために作ったんじゃない」

 実家は共働きで、両親ともに休日がないほど働きまくっている。私は本来「人のためになること」が好きなので、忙しい両親のために料理をつくってあげてもよいはずだったが、そうしなかった。父がよく料理をしてくれたから、というのもある。しかしやはり、作りたくない理由があったのだ。
 大学4年のころ、就活も終わり時間ができたので、料理教室に通い始めた。料理教室は食材ももともと揃っているし、先生の言われたとおりに手を動かすだけでおいしいものが作れてしまうので、家で自分で作らないと覚えられないと思った。そこである日、家族3人揃う日にビーフシチューを作ったのだった。
 父も母も「美味しい!こんな料理ができるのすごいね!」と褒めてくれた。そして「また作ってね!」と言われたとき、私はブチ切れてしまった。普通なら「すごいでしょ!」と思えばいいのになぜ怒っているのか、自分でも全く理解できなかったのだけれど、心の中でこう叫んでいた。「お前らのために作ったんじゃない」

褒められるのが嫌、だけではなかった

 一人っ子なのもあり、子供のころから何かを作ったり、賞をとったりしたら褒めてもらえることがよくあったのだが、私としては褒められることは特に重要視していなかった。自分が努力した結果をなるべく客観的に見つめ、当然と思うか、もっと頑張るべきだったとか、反省していた。親は子どもを贔屓目に見ると思っていたので、どちらかというと褒められることは邪魔だった。小学校の先生からも、褒められるのが好きじゃないんですねと保護者面談で言われたらしい。大人になってから知ったけれど、人を褒めるということは立場が上のものが下のものを評価する行為であり、不快に思うこともあるのだという。なので褒めて伸ばす方法が適切かどうかはその子どもなり部下なりの性格を見極めて判断する必要があるようだ。
 私が怒った理由はそこにも関係があったかもしれないが、一番の理由は「期待の重さ」だったのだと、ようやく気づくことができた。

私の自由や幸せを横取りしないで

 「また作ってね」というのは、本人からしたら何気ない言葉だったのだろう。しかし私は真面目すぎるのか、また作ってあげなければいけないという義務感に押しつぶされそうになった。はじめて誰かのために何かを作ったときは、相手を喜ばせたいとか、ただ作りたいとか、純粋な思いで作るわけだが、その再現を求められたとき、約束はできないと思った。私は自由が好きなので、自分でも昼ご飯のついでに夜ご飯の準備をしたのに、夜には全く違うものを食べたいことがよくある(実家ではご飯を出されることが多かったので、自分が食べたいものが何なのかを考えることもなく、気づかなかった)。なので、義務で何かをしなければならない状況が嫌だったのだと思う。
 加えて両親は他力本願なところがある。再び私の築き上げたものや幸せを横取りされるんじゃないか、あるいは私一人で幸せを独り占めしたら後ろ指を指されるのではないかと、とっさに不安がよぎった。うちの親は貧乏で私が一族の稼ぎ頭となっており、父には何百万ものお金を渡し、母にも様々なプレゼントをしてきた。家族で旅行する機会はほとんどなかったが、私が旅行に行くと必ずお土産を欠かさなかった。
 子どものころから自分は親を幸せにするために生まれてきたのだと思ってきたが、大人になって、そんな人生ばかばかしいと思うようになった。自分は自分を幸せにするので精一杯だし、両親は少なくとも自分のことは自分自身で幸せにしてほしい。まだまだ書ききれない許せない思いがたくさんあるのだけど、とにかくもう親孝行は十分すぎるほどしてきたので、もう二度と親に料理を作ることはしない。少なくとも、心から親を許すことができる日までは。

期待が人から自由を奪う

 親との関係性ばかり書いてきたが、あらゆる人間関係において、ポジティブな期待によって人が縛り付けられてしまうことはとても多いと思う。
 たとえば、会社で誰もしない仕事をよかれと思って率先してやったら、「ありがとう!!これからもよろしく!!」と勝手に担当にされてしまったり。一度クオリティの高いアウトプットを出したらそれを標準として期待されて苦しくなってしまったり。期待してくる周りの人は心からの善意のこともあれば、しめしめ、と思っていることもあるのだろう。
 パートナーシップも同様だろう。彼女の誕生日を頑張って祝ったら、年々期待値が上がり、前年を上回るお祝いをしなければとハードルが上がってしまうとか。彼女自身がそのつもりはなくても、彼氏のほうが勝手にそう思い込み自分で首を締め、重たいと感じるようになるのだと思う。それでも喜んでくれるならばと頑張れるうちは問題ないのだけれど、人は慣れが出てくるとそれを「当たり前」と思ってしまう性質があるものだから、最初は喜んでくれた彼女もそのうち喜んでくれなくなる、、そんなマンネリ化エピソードもよくある話だ。

押し付けられた期待にどう向き合うか

 期待をされることは誇らしいことだが、それを意図せず利用されてしまうこともある。しかし、その期待に応えなければならないというのは自分で決めた勝手なルールだし、応えなかった時に相手にがっかりされたとしても、仕方のないことだ(仕事については明確に対価をもらっているものに限り、一定の品質基準を満たす義務はあるが、逆に対価のないものについては自分の善意の範囲でしかやらなくてよいのだ)。
 また、逆に何かをしてあげた側が相手が喜ぶものと勝手に期待することもある。「せっかくやってあげたのになぜ感謝してくれないのか、、」よく夫が家事をしてくれないと不満をこぼす主婦も、根本的にこうした心理があるのだと思う。それもまた、期待の押しつけ、感謝のカツアゲである。相手を思いやって嫌なこと・手間なことをわざわざやれることは素晴らしいことだが、感謝される・褒められることが動機になっているのであればやめたほうがいいだろう。少なくとも相手が望んでない・頼んでないことをやる必要はない。家事の例でいえば、たとえば極限まで掃除しない。耐えられなくなった夫が掃除してくれるかもしれないし、もし結局妻が掃除することになったとしても、自分が掃除したいから掃除したのであって、感謝のカツアゲにはならないと思う。
 人の考えは読めないし、考え方も千差万別、私の当たり前は相手の当たり前ではない。そんな世界だからこそ、期待とどう向き合うかは難しいのだが、周りの人の思惑に振り回されずに自分がやりたいことをやりたい範囲でやる、つまり自分の軸で人生を進めていくことが、ストレスから開放させる一つのヒントになると考えている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?