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言葉にならない思いたち

「言葉にならない思い」は、言葉にしないとどうなってしまうのだろう。

最近、古賀史健さんの「さみしい夜にはペンを持て」を読んだ。子供でも読めそうな易しい言葉と物語で、一気に読み終わった。

この物語の中でヤドカリのおじさんが教えてくれているのが「コトバミマン」だ。コトバミマンは、「言葉にならない思い」のこと。思いを言葉にしないとどんどん増えていって、頭の中が白く濁ってしまうらしい。

私の頭の中は言葉にしてこなかった思いで真っ白、むしろ濁り過ぎて灰色かもしれない。

というのも、私は認識したくない感情を言葉にするのをあえてやめておくことがよくあったからだ。言葉にする前のモヤッとした思いを、そのまま放置する。言葉にすると、確かにそこにあると認識してしまう気がして。逆に、あえて言葉にせず無視すれば、忘れられる。そんな気がしていた。

私は大学で認知言語学を学んでいた。(ほとんどうろ覚えだけれど…)
認知言語学は、人間の言語能力と認知プロセスの関係を研究する学問のことだ。この分野では、言葉は単なるコミュニケーションの手段ではなく、人間の思考や認識の形成に深く関わっていると考える。

ちょっと小難しく聞こえるかもしれないが、例えば、言語による文法の違い。
日本語では動詞が最後にくるが、英語では主語の直後にくる。この文法の違いは、どのような認知プロセスに根ざしているのか、あるいは、この文法の特徴が認知にどのように影響するか、といったことを研究する。

他にも、長野県の方言に「ずく」という言葉がある。根気ややる気、活力を指すらしいが、長野県民にしてみればどれもピンとこないらしい。彼らはその言葉とともにそれに該当する感情を認知している。逆に、その言葉のある環境で育たなかった私は、いつまで経っても「ずく」に該当する気持ちを明確に認知することはできないでいるのだ。


「言葉がなければ認知しない」

不真面目でバイトばかりしていた私は、これをちょっと誤解していたみたいだ。あるいは、10年以上経つ間に、私の理解がズレてしまったのかもしれない。

「言葉がなければ認知しない」を
「言葉にしなければ認知しない」
と思ってしまっていた。

しかし、それは違う。

言葉を知っているのに放置された思いは、認知されていないわけではない。

言葉で表現するとより強く意識するということはあるかもしれないが、表現される前から確かにそこに「思い」は存在している。
モヤッとしている時点で、認知されているのだ。

沢山のそこにある「思い」を、無視してきたのか、私は。

言葉にしなければ、認識する前に忘れられると思っていた。でも実際そんなことはなく、負の感情が伴う苦い記憶ほどなかなか消えてくれないものだ。

それは、私自身を私が否定することと同義だったのではないか。負の感情を抱く自分を無かったことにしたかった。消してしまいたかったのだ。

この本を読んでから、時々日記をつけるようになった。誰かに話すと後悔しそうなネガティブなことも、日記なら問題ない。ヤドカリのおじさんの教えに沿って、過去形で書く。ネガティブな自分と距離を持って接することができるように。

こうして負の感情も全て言葉にすると、不思議とその時の感情が消化されていくような感覚がある。自分と向き合うとはこういうことなのかもしれない。

「言葉にならない思い」を丁寧に言葉にしていく。
ライターになったのだから、もう、見て見ぬふりはしない。

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