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特撮とは現代の寓話である

特撮といえば、なんといっても戦闘シーン。小さい頃はそう思っていた。かっこいいヒーローとかっこいい怪獣が戦う姿に興奮した。いわばストーリーやドラマパートは、少なくとも当時の自分にとっては、前座や飾りのようなものだった。

かと言って、一概にストーリーが全く心に残っていないかといえばそうでもない。なにか、すっきりとしない思いがいくらか残った。

ウルトラマンは怪獣を倒した。たしかにやっつけたはずなのに。終わったはずなのに。あれはなんだったのだろう?

あれはなんだったのだろう?

例えば、『ウルトラマン』(円谷プロダクション、TBS、1966-1967)第23話「故郷は地球」(脚本 佐々木守、監督 実相寺昭雄、1966)。水のない星に取り残され異形へと変貌した元地球人ジャミラは、自らを裏切った母国への、地球への復讐のために、罪のない人々を巻き込みながらも破壊の限りを尽くす。最後は各国の要人が集まる国際会議場前、慟哭をあげ悶え苦しみながら、掲げらた各国の国旗を執念深くへし折りながら息を絶った。

『ウルトラセブン』(同上、1967-1968)第42話「ノンマルトの使者」(脚本 金城哲夫、監督 満田かずほ、1968)では、地球の先住民を名乗るノンマルトが現れる。現在の地球人に侵略され、海底深くに追いやられたと言う彼らの主張は、「むしろ本当の『悪』は地球人だったのかもしれない」という謎だけを残す。地球人が彼らを殲滅したことで物語は終わり、その答えは明らかにされなかった。

『帰ってきたウルトラマン』(同上、1971-1972)第33話「怪獣使いと少年」(脚本 上原正三、監督 東條昭平、1971)では、宇宙人に対する偏見や思い込みからくる不安で暴走した人間たちが、凄惨なリンチの果てに無抵抗の宇宙人を殺してしまう。その宇宙人が封印していた怪獣が現れ、街を破壊しはじめた途端、リンチを止めに入っていた地球防衛隊の隊員に人々は泣きつく。「早く怪獣退治してくれよ!」。葛藤しながらも人々を守るため、彼はウルトラマンに変身し、雨の街の中で怪獣を葬った。

あれはなんだったのだろう?

ウルトラマンも「正義」ではない

SNSが一般に浸透してしばらくたった現在、見渡せば「正義」の人ほど暴力的だ。情状酌量はいらない、厳罰制裁あるのみ。なぜなら敵は「悪」だから。メイツ星人を殺した街の人々の姿とどこか重なる。

特撮作品には単純な勧善懲悪で終わらせてくれない作品が多くある。単純なつくりをしていると世間的には(おそらく)思われているかもしれないが、一筋縄で終わるものはむしろ少ない。たしかに敵はあからさまな悪の侵略者が多かったのかもしれないが、宇宙人・怪獣=悪という構図が常ではない。

「ウルトラマン」シリーズでは幾度となく、己の正義の不確かさを問いかけてきた。決して、ウルトラマンも絶対の「正義」ではない。

わかりやすくテーマを一つに絞ったなかで選出したが、ウルトラマンシリーズ内だけでも、信頼、生命倫理、命の尊さ、種を超えた友愛、アイデンティティー、家族愛など、様々なテーマを秘めた作品が多くある。言うまでもないが、『ゴジラ』(本田猪四郎、東宝、1954)などその他、全ての特撮作品になにかしらのメッセージが込められている。

現代の寓話

特撮作品、そのそれぞれがかけがえのない教訓を見る者に与える。それはある一種のメタファーを通して、直接的ではないにせよ語りかけてくる。その意味で、特撮とは現代の寓話だと思う。

「うさぎとかめ」「オオカミ少年」「アリとキリギリス」...。寓話は人生のなかで大切なことを教えてくれる。その先の人生がよりよくなるように、とにかくわかりやすくメッセージを伝えてくる。

対して、特撮は昔話ほどには、わかりやすくなにかを教えてくれない。巧みに、(時に軽視される)児童向け作品のパッケージに自らを梱包する。刺激的な表層に子どもは心を躍らせる。その奥になにがあるのかをはっきりと理解しないままに。ただ、全く気づかないわけでもない。

初めてジャミラの物語を見た時、ジャミラから漏れ出る悲壮をたしかに感じ取り、釈然としない隊員たちの姿に子供心にも、なにか、モヤモヤしたものを抱いた。よく覚えている。ジャミラ可哀想、でもウルトラマンが来てくれてよかった、でも可哀想...。なにかがある。わからないけれども。

少しずつ色んな意味が解りかけてきた頃に、その物語の意味を知り、果てはその制作背景も知り、その内に秘められていた思いに気づけた。なるほど、これか。そういうことだったのか。ここで人生で初めて、特撮に出会ったような気もする。

その時はわからなくても、解釈できなくてもいい。そのモヤモヤを抱えることがきっと大切だったのだ、と今はそう思っている。いつか、何かがわかるようになった頃に迎える“2周目”で気づければいい。とにかく言えることは、まだものの分別つかない年端で、特撮の“1周目”を経験できて本当によかった。

それらの「風景」自体はウルトラマンシリーズの物語内容とは必ずしも関係がない。しかし、物言わぬ風景が記録されているいるからこそ、私たちは荒唐無稽な怪獣ドラマであるウルトラマンシリーズを見ているうちに、やがて現実の社会や歴史への自らの想像力を横滑りさせることができる(『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』(福嶋亮大、PLANETS/第二次惑星開発委員会、2018、p178)

(この本は特撮論として秀逸な一冊なので、またいつか改めてしっかりと取り上げたい。あと、上で触れた「故郷は地球」なども、それぞれについて時間をとってまた考えてみたい。)

「特撮」とは魂の名前だ

特撮、特撮と言ってきたが、「特撮」とはなんなのだろうか。好きなくせに答えらしい答えを用意できずにいるけれども、最後にすこしだけ。

特撮とは、読んで字の如くで言えば「特殊撮影」という技法及びそれらを用いた作品のこと、ではないと自分は解釈している。

特撮とはジャンルじゃない。特撮文化を築き上げてきた先人たちの未来への願い、その魂の名前こそが「特撮」と言うのだと思う。

極限の状態のなかでも、己の青春の全てを注いでその世界に夢を見た。生きていく上で大切なこと、その祈りを先人たちは作品に込めた。単に説教くさくするのではなく、見立てを通した奥ゆかしさを含んで。

寓話とは先人から未来をつくる子どもに贈られるプレゼントだ。未来のために贈られる無償の愛がそこにある。

少なくとも俺は、真剣に特撮と向き合った誰がしからのメッセージを受けとったつもりだ。自分の中で大切にしないといけないと思えるメッセージを、いまも確かに持って生きているつもりだ。

大切なことは全部、とまではいかないにせよ、いくつもの大切なことを、そして、大切であろうことが存在することを教えてくれたのは特撮だった。

なんでか泣きそうになった。

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