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魂をどう説明するのか?

言葉にならないこと、説明できないことについて

今日、うとうとしている時間があったときに、ふと、

「魂をどう説明するのか?」ということを考えていた。

魂って何ですか?・・・と人に聴かれた時に

そういうモノがある。としか言えない。

あると僕は知覚している。ということなのか。

それは直感というか、バイアスというか、

そういう思い込みともいえるかもしれない。

宗教、メディア、親や周りの思想、文化。

いずれにせよ、

過去の刺激や体験からそういうものが在るという実感、

それに伴う直感、思考。

魂は具体的に、どこに、どうあるんですか?

それをどうやって観測するんですか?・・・と聞かれたら

応えようがない。でもあるとは言える。(なんやそれ)

信じている、いや知覚している?

大昔の人はもっと具体的に言えたのかもしれない。(知らんけど)

仮に肉体を解剖して、

魂を説明してみてください。と言われても、説明ができない。

で、実際に肉体を解剖して説明しようとしても

魂ってやつはどこですか?って話になる。

そこは説明どうこうするのは、諦めようと思う。

結果証明ができない。では、無いと言いきれるのか。

あるって言ったものの証明できない人は嘘つきなのか。

僕はそうは思わない。

肉体を解剖するまでもなく、その存在があると思う私がいる。

それ以上でもそれ以下でもない。

ただ、いたずらに肉体を解剖させようとは思わない。

魂(心)という言葉が生まれた時、

人々は認識ができるようになった・・・

※あわい時代の「論語」(書籍)

・ダンゴムシを踏んでしまったとき、

・野菜の苗を間引くとき

・イノシシにナイフを突き刺すとき

僕の内側、手や肌、

いろんな刺激を通して、相手の魂を知覚する。

明確に、全身が反応する。

身体を使うと、感じる、分かるがもっともっと広く深くなる。

その世界観で溶け合い、混ざり合いながら表現したい。

うたた寝からの問いについて、

勝手に考察して、ここで、言葉にしてみたけれど、

やっぱり十分でない。

ただ、合気でもなんでも、「わかる」ということに段階がある。

そういう世界があるんだということを、

身体レベルで分かっているのと、

TVで見たという知識レベルでは次元が違う。

体感してわかったのは、合気はヤラセじゃない。

TVでしか見たことない人はヤラセだと思ってしまう。

僕も最初半信半疑だったから。

でもどういう世界なんだ?と言葉で説明しようとすると

できない。見てもわからない。

身体で体感してはじめて、分かりはじめる。

醒めるみたいな。

そういうことが世の中にはいっぱいあるんだろう。

言葉にできないこと、説明できないことがあるということ。

そういうことを許容しておくと

結果、自他に対して素直で、

優しく生きられるんじゃないかということ。

魂の話だけではなくて、

なぜ、あなたはあの人が好きなのか?

なぜ、あなたはあの人と結婚したのか?

なぜ、あなたはあの人と別れたのか?

一部は説明がつくものがあったとしても

それが全てを内包するものではないし、

一つの問いからの答えだけで安直に

その人そのものを批評できるものでもない。

言葉には限界がある。

語りえないことがある。

だからこそ、

身体的に捉えていく。触れていく。感じていく。

原理原則に触れようとする。

それが言葉の世界を超える行為なのかなと。

自分が観測・認識するこの世で言葉で

孤立しないように、対立しないように

あらゆる矛盾、葛藤を調和させて、

安定させる行為なのかなと。

言葉にならぬことを言葉にしてみる。

そうすると、その隙間にあるものが何か見えてくる気がする。

見つめていくと優しい世界がある。


魂もそういう隙間にあるんじゃないかと思う。

うたた寝も、たまにはいいもんです。

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