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「本当にどうしようもない人」に救いはあるのか

 世の中に、言葉を選ばずに言うと、「本当にどうしようもない人」というのはいると思う。私が「本当にどうしようもない人」という人は、本人は非常に苦しんでいるけど、その苦しみを誰からも「助けてあげよう」という気持ちを持たれないような人のことだ。
 具体的には、頭が悪く、能力も低く、人に感謝もしないくせに他責的な性格で、人に迷惑ばかりかけ、自分の人生に起きた悪いことを全て他人のせいや社会のせいにしてしまうような人だ。今あげた特徴に「中年」「男性」という属性も付与したら完璧だろう。「社会的に価値が無いと見做されている」特徴、属性を兼ね備えた存在だ。
 そして、私は子どもの頃から、「本当にどうしようもない人は救われることは無いのだろうか。救われることは赦されないのだろうか」と思っていた。

 ここまで「本当にどうしようもない人」を他人事のように語ったが、私が子どもの頃から「本当にどうしようもない人」として想定していたのは自分自身のことだった。つまり上記の問いは、本当は「私は救われることは赦されないのだろうか」という問いなのだ。

 なぜ「本当にどうしようもない人」が私なのかと言うと、私自身が内面化した価値観が私を「価値のない人=本当にどうしようもない人」と見なしていたからだ。その内面化された価値観は、多く両親の教育によって身に付けた。

 私の両親は教育熱心な親だった。教育熱心というのは、子どもに勉強をさせるということにとどまらず(勉強はさせられたけど)、物事の善悪の判断基準を私に教え込ませる、という意味においても熱心だった。
 特に父からは、無知は罪だの国際情勢が今どうなっているがどこそこは悪い国だといった固い話から、人に金を貸すときは返ってこないと思って貸せだの恋愛と結婚は違うといった、何で未成年の私に話したのか分からないような話までたくさん御教授いただいた。
 父は自分の中の善悪の基準が確固としてある人で、父はそれを私に教え込ませようとした。私はその強制する態度に反発してはいたが、父からのその価値観を内面化していた。
 その結果、「社会に役に立つ人間こそが価値ある人間である」という価値観を内面化し、内向的な性格の私を「価値が無い」と断じ続けることになった。
 そういう自己イメージが根底にあるため、私にとって「本当にどうしようもない人」は自分自身を想起せざるを得なかった。そして、そのどうしようもない人である私は、救われ得るのか、というのが私にとって非常に深刻な問題だった。

 「救われるのか」という問題設定は、つまり「普通に考えたら救われない」と思っていると言うことだ。上記の特徴を備えた人を救おうとする他者がいるだろうか(反語)。
 「救われることはない」と思っているけど、私は「救われたい」と思っていたので、救われる方法を探した。

 だけど、社会が「本当にどうしようもない人」を救ってくれそうにないことは成長していくうちに理解した。先も述べたが、「本当にどうしようもない人」は社会的に価値が無いので、社会側がその人を救う動機が無いのだ。

 ではどうすれば救われるのか。私が見つけた一つの答えは、「その人自身が変わること」だ。
 「本当にどうしようもない人」は社会的に価値が無いから救いの手が差し伸べられないわけで、社会的に価値がある人になれば救いの手が差し伸べられる。
 だから、能力を磨いて誰かの役に立てる人になる、というのも一つの道だろう。能力があり、人の役に立てるようになれば社会も助けてくれるだろう。あるいは、自分の他責的な性格を改めれば、困っているその人を助けてくれる人も現れるかもしれない。
 これは、「本当にどうしようもない人」が「どうしようもなくない人」に変わるという解決策だ。

 だが「本当にどうしようもない人」が「どうしようもなくない人」に変われるなら、その人はもともと「本当にどうしようもない人」では無かったのではないか。「本当にどうしようもない人」は自分を変えられる強さすら持たない人ではないだろうか。どうしようもない人が、どうしようもないまま藻掻いているからこそ苦しいのではないか。

 どうしようもない人をどうしようもないまま救ってくれるものはないのかと考えた私は、もし救ってくれるものがあるなら宗教ではないかと思った。信じる者は救われるって聞いたことあるし。だから私は最初宗教に救いを求めた。
 しかし、それなりに労力を割いたが、私は宗教では救われなかった。浄土真宗にしろキリスト教にしろ、まず「信じる」ということが救われることの前提になる。私には「信じる」ということができなかった。既存の宗教では私は救われなかった。

 仕方がないので、私は自分を変える方向で努力することにした。そして紆余曲折を経て、今は上座部仏教の瞑想を実践している。実践の中で一定の効果は得られている。
 しかし私は未だ「救われる」ことに憧れがある。憧れていても、既存の宗教は無理だと分かったので、今の私はオリジナルのモノを創ろうとしている。教祖 私、信者 私一人のオリジナルの教えだ。既存のどんな宗教でも救われない人でも救ってくれる、有難い教えだ。私はそれを創りたい。


 自分を変えるにしろ、自分を救ってくれるオリジナルのモノを創るにしろ、どちらにしても「本当にどうしようもない人」が救われるには自分が何とかしないといけないようだ。本音を言うと、自分ではない何か/誰かが私を救ってくれるのが一番ありがたかった。しかしそれは叶わないようだ。

 私以外の「本当にどうしようもない人」はどうやって救われたのだろうか、と思う。救われないまま死んでいったのだろうか。救われないまま死んでいくのだろうか。
 まあ、私もまだ救われたわけではないから、私も救われないまま死んでしまうのかもしれないけど。


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