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自分事として捉える、ということの内実

 先日、林業の仕事が空いていたので物流センターで荷運びのバイトをしていました。その物流センターでちょっと嫌だなぁと感じる方がいました。
 その方はそのフロアの責任者の方で、特定の人に辛く当たる人でした。バイトの私に対しては特に厳しい態度は取られないのですが、その物流センターに勤めているおそらく常勤と思われる人の内の一人にきつく当たっていました。
 叱責の理由も内容も、よく聞き取れないので分からなかったのですが、「みんなが聴いてるところでそんなにひどく叱らなくても良いじゃないか、嫌だなぁ」と思いました。そして、その後ほとんど自動的に「あの人は性格が悪い人だな」と思いました。

 「あの人は性格が悪い人だな」と思って、私がそういう思いを抱いたことに気づいた後、はたと「いや、あの人があんな行動(大きな声で人を叱責すること)を取ったのは、性格という、あの人の内側の要因にだけ起因するものではないのではないか」と思い至りました。
 私は、その人が大きな声で人を叱責したという行動を取った原因を「性格」という一つの要因に自動的に求めてしまい、「あの人は性格が悪い人だ」と思ってしまいましたが、その人がその行動を取った原因を一つの要因に求めてしまうのは、仏教の戒める「一因一果」の考え方だと気づきました。
 その人がそういう行動を取ったのは、本人の性格も影響しているかもしれないけど、環境の影響もあるだろうし、過去の経験も影響しているだろうし、一緒に働いている人も影響しているだろう。様々な要因によってその行動が生じているのであって、「その人の性格」といった、その人の内側にだけ原因を求めるのは的外れだ、と気づきました。そして、そう気づいてから「周りの要因もその人の行動に影響を及ぼすなら、他ならぬ私自身の在り方もその人の行動の原因の一つになっている」と思い至りました。そして、「ああ、私の在り方があの人に嫌な行動を取らせたのだ。あの人に行動を改めてほしいと思うなら、私自身が変わらなければならないんだ」とも気づきました。そして、そのことに気づいて大きな衝撃を受けました。

 というのも、そう気づいた時、私の考えはさらに飛躍し「ああ、今のこの世の中が今のような有様なのは、私にもその原因の一端があるんだ」と思い至ったからです。
 この今の世の中が今の状態であることは様々な原因によって成り立っています。そしてそれは私たち一人一人が原因の一つになっていることを意味していますし、そうであるなら、他ならぬ私自身もその原因の一つであることになります。私自身が今のこの世の中の在り様を定めている要因の一つなのです。


 私は自然環境に関心があります。そして、現代の社会の在り方が経済活動を優先するために自然環境をないがしろにする在り方となっていると認識しており、それをひどく嫌悪しています。
 しかし、今まで私は、現代の社会が自然環境を蔑ろにする在り方となっている原因を私以外の外に求めていました。
 例えば経済活動を優先させる資本主義社会のせいだ、とかコンクリート産業のせいで水脈が分断されて自然環境が悪化するんだ、とかです。つまり「私以外の悪者(人や組織や社会構造)が自然環境を悪くする社会を作っているんだ」と思っていたのです。
 しかし、先ほどの「自分もこの社会の在り様を決めている要因の一つだ」と気づいた時、自分以外の悪者を求める自分の心にも同時に気づきました。それは私自身が今の社会をこのような在り様している、ということを微塵も考えていない態度でした。そしてそれは、自然環境を蔑ろにしている社会、という問題に対して、他人事と捉えている態度に他ならない、と気づきました。
 なぜなら、自然を蔑ろにする社会を作っている原因が自分以外の何かなのだとしたら、私には全く責任がない、と見なしていることになるからです。それは「俺のせいじゃない!あいつのせいだ!」と自分を棚に上げて他を糾弾する態度に他ならないのです。
 そうではなく、まずしなくてはならないことは、「自分以外の何か・誰かを変える」ことではなく、「自分自身が変わる、自分自身が行動する」ということだったと気づいたのです。

 この気づきを得た時、腑に落ちた一つの思い出があります。
 私が高森草庵に滞在していた時、高森草庵を始められた 故 押田神父の講演のテープを聞かせていただくことがたびたびありました。押田神父は多くの講演において、「自分が悪いんだ、と気づくことがまず大事だ」という趣旨のことをたびたびおっしゃっていました。だからこそまず自分が変わる必要があるんだ、と。正直、私は聴いていた時全くその講演にピンと来ていませんでした。私はその講演のテープを聴くたびに
「なんで自分が悪いんだ。なんで押田神父が自分が悪いと思う必要があるんだ。悪いのは世の中じゃないか。」
 そう思っていました。

 その疑問が今回の気づきでようやく解消しました。もし世の中に悪い点があるなら、それは自分「も」原因の一つだから、その原因の一つである自分が変わることで、その結果である世の中も変わり得る、という意味だということなのです。「世の中が悪い。世の中が変わるべきだ」という他人事の態度でなく、「世の中が悪いのには自分にも原因がある。まず行動をすべきは自分だ」という自分事の態度の重要性を、押田神父は語っていたのだと思いました。


 なお、理解というのは深度があるように思います。私の今回の気づきは、仮に言うなら深度1の理解です。押田神父がおっしゃっていたことがもし今回の私の気付きと同じ種類のものであったとしても、おそらくそれは私より深度の高いものでしょう。
 ただ、浅いなりに今回の気付きを得られたのは非常にうれしく思います。私は今回の気付きを、より深く体感できるように生きていきたいと思いました。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!