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偶然を必然として受け止めることで生まれる自由

 "人生にはさまざまなことが起きるが、それを「ただの偶然」として受け止めるか、「必然だったのだ」と受け止めるかによって生き方が変わるのではないか。"
 先日の松葉舎の授業であった話です。

 塾長の江本さんから例え話がありました。

 あるトラックの運転手がその人に全く過失が無い状態で子どもを轢いて殺してしまった。法的には運転手に罪は無いが、実際に自分の運転するトラックが子どもを殺してしまったので、法的にではなく道義的に責任を感じ、その遺族に償いをしようとする。これは、人生で起きた出来事を必然と受け止め、その責任を負おうとする態度ではないか。
 そんな話でした。

 私はこの話を聞いて、「人生で起きる出来事を偶然と捉えるか必然と受け止めるかの違いは、自由と責任の問題につながるのではないか」と思いました。


 人生で起こる様々な出来事、出会う人々、それらすべてを「偶然だ」と思うなら、そこに自由はありません。なぜなら、全てが偶然であるなら、そこに自分で決める余地はなく、外から決められるだけになってしまうからです。
 しかしそれらを全て「必然」と受け止めることもできます。そして「偶然とも必然とも受け取れる」からこそ、どちらの受け止め方をするかはその人の自由です。さらにそれぞれの受け止め方によって、人生の上で起きる事象の具体的内容は変えられなくても、それが自分自身にもたらす意味を変えることができます。
 この「自分自身にもたらす意味を変えることができる」というところに、私は「自由」を感じるのです。

 また「これは偶然起こったのだ」と思うのと、「これは必然だったのだ、私に必要だから起こったのだ」と受け止めるのとでは、その出来事への向き合い方がまるで変わります。
 「私に必要だから起こったのだ」という態度は人生で起きる出来事を「我が事」として捉えることです。逆に「偶然だった」と受け止めるのは「他人事」です。
 そして「我が事」と受け止められることで初めて主体的に人生に向き合うことができます。主体的に人生に向き合うことで「責任を負う」という意志も生まれてきます。

 抽象的な話が続いたので、具体的な例を出します。私の話です。

 私は環境改善活動のグループに所属して、定期的にイベントや自主作業を行っています。それは、私にとって自己肯定感を高めるためではありますが、行っている理由がもう一つあります。それは私がこの時代に生まれてきた責任を取る、ということです。

 私は今の日本の自然環境はかなり危機的な状況だという認識があります。各地で頻発している土砂災害は、経済活動のために山や河川に日本人が施した工事によって引き起こされている、いわば人災である、という認識です。
 この状況で私がどういう選択を取るのも自由です。私が生まれた時代に日本の自然環境の状態が危機的な状況であること、これを「偶然」と片付けて、そんな環境のことを忘れて私はただ私の楽を追い求めることも可能です。
 しかし、私は自分が生まれた時代の自然環境が現在の状態であることが「必然である」と引き受けようと思ったのです。
 具体的には、私が自然環境に関心を持っていること、自然環境が人間の経済活動によって破壊されていると私が認識していること、その自然環境を改善する手法(土中環境や大地の再生)に私が出会ったこと、環境改善を実践している人たちに私が出会ったこと、それらすべてを「必然だ」と受け止めました。
 「必然だ」と引き受けた私は自然環境がこのように悪化している現状について「責任」が自分にあるように感じられました。そのため、ただ手をこまねいて何もしないのは無責任に思えたので、環境改善を実践するグループに所属し、仲間と共に実践することを始めました。
 
 しかし、私が責任を感じるのはそもそもおかしな話です。私は実際に工事をして山や河川を破壊しているわけではありません。実際の工事も、工事を立案した人も私ではない別の人です。そのため、論理的には私が責任をとる必要はないのです。
 そう、私が責任を取る「必要はない」のですが、私は「勝手に」責任を取ろうと思ったのです。

 繰り返しますが、私は現状の自然環境が悪化の一途をたどっていると認識しています。そしてそれを改善させる方法を知り、改善の実践をしている人たちと出会いました。
 しかし他の多くの方々は違います。自然環境が悪化の一途をたどっているという認識ではない方もいますし、もし悪化していると思っていても改善させる方法を知らない方々もいます。そして改善活動をしている人たちに実際に会ったことのない方々もいます。そういう方々は、実際に環境改善を実践することは難しいでしょう。実践しようという意欲自体を持ちづらいでしょうし、実践しようと思っても行う上でクリアすべきハードルがいくつもあるからです。

 しかし私は実践できる環境にあります。実践できる時間も身体もあります。であれば、実際的に不可能な方に代わって、私が実践を行う「責任」が私にはあると感じられたのです。これも繰り返しですが、私が「勝手に」責任を感じているだけです。そこには何の論理的整合性もありませんが、私が「勝手に」責任を引き受けたという話です。

 具体的な話をして分かりやすくしようと思いましたが、逆に分かりにくくなったかもしれません。
 要するに私は、自然環境が破壊される現状に「勝手に」責任を感じ、その責任を「勝手に」取るために環境改善活動をしている、ということです。
 この「勝手に責任を取る」ということが「自由」であり、かつ「我が事として捉える」ということだと私は思っています。

 
 この世界で起きることはほとんどが自分に関わりなく起きているので、自分の人生に起きることで自分自身が制御できる範囲は非常に少ないでしょう。しかし、起きる出来事を制御できなくても、起きた出来事にどう向き合うかは自分で変えることができます。つまり「他人事」(偶然)としてしまうか、「我が事」(必然)として捉えるか、です。そして「我が事」として捉えたとき、初めて人はその出来事に主体的に関わることができます。上記の私の例で言えば「主体的に関わること」とは「勝手に責任を取る」ことです。

 人生で起きる事柄に対して「他人事」として関わり、自分の外に縛られるか、「我が事」と捉えて主体的に関わることで自由になるか。
 私は「自由であること」は人が人として生きるうえで重要なことだと思っているので、わたしは積極的に「勝手に責任を取る」生き方をしたいと思います。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!