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「自分は世界の一部分しか知らない」と認めること

 私は、自分が相手のことを完全に理解することはできないだろう、という前提で生きています。


 群盲(ぐんもう)象を撫でる、という寓話があります。元はインド発祥のお話のようで、様々な地域に伝わってアレンジされているそうですが、大筋は同じです。
 目が見えない人たちが象を撫で、象とはどういう生き物か議論するのですが、各人が撫でた部位が違うのでお互いの意見がかみ合わず、喧嘩してしまうという話です。
 例えば、足を触った盲人は「柱のようです」と答え、尾を触った盲人は「綱のようです」と答え、牙を触った盲人は「パイプのようです」と答えた、というようにです。
 彼らは全体の中の一部分を触ってその感触から答えているので、間違いではありません。ただ彼らが答えている部分だけが全てではない、というだけです。ですが、盲人たちにとっては自分が触った確かな感触、実感があるので、自分が感じたそれとは明らかに違ったことを言っている他の盲人はまるで嘘を言っているかのように感じられるため、互いを否定し合い、喧嘩に発展しまう、というお話です(話の派生によっては殺し合いにまで発展する)。

 この寓話は盲人それぞれの見解は間違っているわけではないですが、それら全ての特徴をもったものが象である、という全体の視点がないため、行き違いが起きるという話です。そのため物事の一側面だけを見て全てを理解したと勘違いしてしまうことを戒める教訓として語られることが多いです。
 しかし、私は自分がこの盲人たちと同じことをいつもしているのではないか、彼らを笑うことはできないのではないかという思いを持っています。

 私は生きていく中でいろいろな経験をし、いろいろな知識を得てきました。そしてそれらの経験や知識で自分なりの世界観や価値観を作っています。それは私以外の人たちも同じで、それぞれの人生において経験したことや得た知識によって各人の世界観や価値観を作っています。その異なった世界観や価値観の私たちが、もしその差異のすり合わせをせずに話をしたなら、寓話の盲人と同じことになってしまうでしょう。

 例えば、「家族」という言葉があります。「家族はどういう形が理想的か」という話題があったとします。
 私は両親と姉が1人いる4人家族で、さらに実家では祖父母も同じ家に住んでいました。私にとって「家族」の原風景は実家のその姿なので、私が自然に「家族」といって思い浮かべるモデルはそういう形になります。
 しかし、母子家庭で育った人にとっての「家族」は私とはまるで違う色合いで想起されるでしょう。また児童養護施設で育った人は「家族」に対してまた違った印象を抱くでしょう。
 もし3人が思い描く「家族」の内容を確認せずに「家族はどういう形が理想的か」という話題を話し合ったとしても、おそらく噛み合わないことが多くなるでしょう。

 あるいは、その3人がニュースなどで母子家庭についての話題を見聞きした時の感想も異なるかもしれません。
 私のように祖父母までいる家族で育った人間は、母子家庭の子どもを「家族が少なくて可哀そう」と思うかもしれません。母子家庭で育った人は「当たり前のことだ」と受け取るかもしれません。児童養護施設で育った人は「血のつながった親と一緒に暮らせて良いな」と羨むかもしれません。
 物事に出会った時に感じる印象すら、その人の歩んできた人生によってまるで変わります。


 寓話では、目の見える人(全体が見える人)がいて、その視点から見ると盲人がそれぞれ触っているのは象の部分であり、それら部位がまとまった「象」という全体を見ているので、盲人の愚かしさが分かる、という構図になっていますが、現実世界では私たちは常に盲人と同じ立場です。私たちは常に一部の情報しか手に入れられず、「全体が見える人」という立場の人はいません。
 私で言えば、宗教の分野において仏教のことは多少分かりますが、キリスト教もイスラム教も神道のことも良く知りません。また、林業についても多少分かりますが、漁業やIT業界や金融業界のことはさっぱり分かりません。もっと言えば私は日本語で書かれた情報を得ることはできますが、英語やヒンズー語やマダガスカル語の情報を得ることはできません。私が得ている、または得られる情報は非常に限られています。そして私はその非常に限られた情報から「世の中はこういうものだ」「こういうものが価値があるのだ」と判断しています。
 そしてこの非常に限られた情報から世界を理解している、という構図自体は、多少の差はあれど全ての人に共通しています。そういう限られた情報から世界を理解している人同士が交わるのが人間社会です。寓話の盲人と同じ状況です。


 そういうわけで、私は相手の言っていることが完全に分かる、ということは基本的に無いのだと思って生きています。尻尾を触って「これが世界だ」と言っている私と耳を触って「これが世界だ」と言っている人が分かり合うのは無理だと思うからです。
 そのため私が一番大事にしているのは、自分が見ている世界は一部でしかない、ということを自覚することです。耳しか触っていない私には知り得ない尻尾の世界や足の世界があるのだと自覚することです。
 そしてそのうえで、「あなたの見ている世界はどのようなものですか?」と相手を理解しようとすることも大事だと思っています。私は尻尾しか触っていなくても、耳を触っている人の話を聞いて、自分の世界とは違う世界があることは知れます。「私の触ってる世界とまるで違うけど、きっとそういう世界もあるんだろうな」と思えれば、相手の世界を完全に理解することは出来なくても、少なくとも寓話の盲人のように喧嘩し合うことは無いでしょう。それどころか、私が触れることのできない世界についての理解が深まるかもしれません。

 私がどんなにたくさんの経験をして、どんなにたくさんの知識を身に付けても、寓話における目が見えて象の全体を見える人の立場になることは恐らくできません。もしかしたら、しっぽと耳と足を触ることはできるかもしれませんが、それでも鼻や牙や腹を触らないまま死んでいくでしょう。
 世界の全てを1人で知ることができなくても、「私は一部しか分かっていない」と認め、他の人の世界を聞くことで、知らない世界に間接的に触れることができます。そうやって多くの人とそれぞれの世界を共有すれば、象の全体像に近いものが共有されるでしょう。そうすれば、より象の本当の姿に近いものが共有でき、問題が起きたときもより適切に対処できるよう可能性は上がると思います。

 「自分は世界の一部しか分かっていない」と認めることが、相手を理解しようとするときにまず必要になる態度だと私は思っています。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!