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「感覚」というものの深さ、玄妙さ

 先日の松葉舎での授業で、私が「五感で感じるということの内実が分かった」という気づきについて話しました。

 私の話から、感覚についての話題になり、他の塾生の方から興味深い話がありました。その方が光岡英稔先生の講習を受けた時に聞いた話とのことでしたが、「感覚として知覚できる以前の感覚があり、その感覚が根本だ」という話でした。我々が「感覚」として知覚できる以前に構造として身体の性質があり、その性質を知っていくことが大事だということです。

 どういうことかというと、例えば、人間の身体は左右で働きが違います。刀を持つとき、左手を柄頭つかがしら側に添え、右手をつば側にして持ちますが、これはこの形の方が力が入りやすいからです。これを右左逆にすると力が入りません。
 これは鍔迫り合いをしたら分かりますが、右左を逆にした状態で鍔迫り合いをすると、右左を逆にした側が力負けします。これは刀でなくて棒でも可能ですので、みなさんも棒を持って誰かと押し合って見ると分かりやすいと思います。明らかに力が入りやすい、入りにくいという形があります。
 より正確に言うと、左手の平を前にし、右手の甲を前にする形が力が入りやすく、それに準ずる形の持ち方だと力が強くなります。
 光岡先生曰く、このような身体の働きは力が加わらないと気づけないが、こうした構造を理解していくことが大事だ、とのことでした。

 私はこれを、知覚できるほどの感覚(にぎった感覚などの触覚や左右の重心のバランスを感じる平衡感覚など)は粗大なものであり、知覚できないほど微妙な感覚に目を向けることが大事なのだ、というメッセージだと受け取りました。
 そしてその知覚できないほどの微妙な感覚を知るには、上記のように外部から力を加えるなどの工夫が必要になるのだと思います。

 また、感覚にまつわる話で、塾長の江本さんからアクティブタッチ(能動的触知覚)についての話もありました。これは、受動的に感じ取る感覚より能動的に感じ取ろうとする行動の方がより弁別しやすいことを表す語です。
 例えば、目を瞑って何か物を触り、その物の形を探るのと、目を瞑ったまま手を差し出して、別の人が物を持って目を瞑っている人の手に当てていった時とでは、目を瞑った人の物の把握の正確さが変わるというものです。
 「手に触れている」という条件自体は自分で触りに行くのと人が物を持って手に当てに行くのとでは違いは無いですが、自分で触りに行く方がより弁別しやすいという結果が出ます。
 これは、私たちが手で物の形を知ろうとするとき、皮膚から受容される感覚情報だけでなく、手でなぞる時間の長さを感じる時間感覚や筋肉の収縮や関節の圧などの固有感覚と言った複合的な感覚を総合して判断していることを示しています。

 私はこのアクティブタッチの例から、私が単に「胸の詰まりの有無で水脈の通りを感じた」と知覚していたことが、他の複合的な要因も総合して判断して生じていた可能性を考えました。


 今回の松葉舎の授業での話は、私が自分の感覚を感じることで外的な環境の変化を感じることができた、という話から広がりました。
 他の塾生から聞いて光岡先生の話では、「知覚できる感覚の領域で満足するのではなく、その更に深いところにある感覚を知ろうとすることの大事さ」、江本さんのアクティブタッチの話では「受動的に感じる感覚だけでなくこちらから感じようと思って動くことの大事さ」を受け取りました。

 これらは確かに環境改善活動で、環境の状態を知るときにも大事なことだと思います。
 山の環境の善し悪しを知ろうとするとき、ただ山の様子を見たりするだけでなく、地面を軽く掘ってみてその匂いを嗅いだり、土の様子を触って確認することがあります。アクティブタッチの話とは少しずれますが、山の状況を知ろうとするとき、山にアクションを起こしてその反応から山の様子をより深く知ることが大事になります。
 また、「胸の詰まりの有無」という一つの基準ではなく、アクティブタッチや光岡先生の話の例のように受動感覚以外の感覚や、知覚できていない感覚にまで目を向けることでより「五感で感じる」を深めることができるように感じました。

 私が理解していた「五感で感じる」をより深く掘り下げることのできた授業でした。


 本日は以上です。スキやコメントいただけると嬉しいです。
 最後まで読んでくださりありがとうございました!