外側に期待しすぎず、期待する場合は「許し」とセットで。
期待と呪い
言葉から受ける印象は真逆のように感じるが、
対相手にかける、拘束力として考えた場合、両者はほとんどイコールであるように思う。
人から何かを与えてほしい
自分の望むものを、外側から得ようとするとき、
期待が裏切られ、悲しみや怒りになる。
信じてるからね、期待してるよ
は呪いとよく似ている。
かけられた方は、グルグルに縛られて、苦しいだけだ。
かといって、人は、何も、期待されなきゃされないで、寂しいと思ってしまう矛盾を抱えている点もあるが・・・。
そこで、肝心なのが、許しだ。
期待とセットで許しも持っておく。
勝手に相手に期待して、思い通りの結果が得られなかったとき、
反対に、相手から勝手に期待されて、応えられず、がっかりされたとき
そのどちらの場合でも、瞬発的に湧き上がる、感情から距離を取り、
どんな反応がきても、許す。
そういう考えもあるかもしれないと、想像してみる。
逆の立場だったら、どう思うかを、考えてみる。
期待が大きければ大きいほど、
そんな人だと思わなかった!
そんなこと言うなんて信じられない!
とか
大きい反動となって、ぶつかってくるのが厄介なところだ。
信頼してるからね、というのも、呪いと近しい。
しかし、それは、初めから相手を信頼しすぎないで、冷静な関係性が楽ですよ、という斜に構えた姿勢を推奨しているわけではない。
時には全力で、相手を信じ、一蓮托生で、やっていくことも大事だし、強固な信頼関係の構築の上でしか達成できないこともたくさんある。
つまり、信頼をする場合は、
常に、自分と相手との境界線を見極め、自分の望んだものをそっくりそのままくれるという幻想を捨て、どんな答えが返ってこようと、許す心をセットでも持っておかねばならない。
価値観を押し付けてはならないし、結論だけでなく、プロセスや姿勢を総合的に見て、できる限りサポートする。
職場や友人など、ある程度、社会的な距離を取れる関係性の場合には、このスタンスは比較的取りやすい。
しかし、
配偶者や子ども、親など、
距離が近くなる程、この境界線が曖昧になり、期待という名の呪いだけが大きくなり、許しをすっかり忘れてしまう。
親子喧嘩と夫婦喧嘩。
これは境界線が曖昧になり、自分とまったく同じ考え以外、許せいない、ということから勃発することが多い。
まさに、今週末の私だ。
相手は、私とは別の人格で、違って当たり前。
自分との違い、勝手にかけた期待に沿わなかった時、一方的に捲し立てるのではなく、一歩引いて、自分の言動を振り返り、自分も相手も許せるようになりたい。
怒るのってほんと疲れるし、やめたいのに、どーーして毎回やっちゃうのかな。
ほんとやんなる。
けど、ひとまず、お互い、謝れるところは謝って、仲直り(?)できたので、次から、気をつけよう。
夜は感情的になりやすいから、大事な話はしないに限る。
これもポイントだ。
相手だけでなく、自分も許して、来週からまた頑張ろう・・・