エチオピア旅行記(2)アディスアベバ
2003年12月19日、私はアディスアベバに到着しました。アムハラ語で「新しい花」を意味するこの都市は、見たことのない景色で溢れていました。改めて調べてみると、私が到着したボレ国際空港はその年に新しくなったそうで、確かに近代的でとても清潔でした。当たり前だけど、歩いている人たちも、通りの様子も、空の感じも、すべてがカイロと違います。特に、豊かな街路樹が印象的でした。初めての場所に胸がドキドキします。そうして、食い入るようにタクシーの車窓から外を眺めながら、予約していた安宿に到着しました。
この旅の相棒アンディーはロンドンから先に到着して待っていました。案内された部屋のテーブルにコンドームがいくつか置いてあったので、はて?と思った記憶があります。私たちは早速外に出て散歩することにしました。長い手足、褐色の艶やかな肌、小さな頭、大きな瞳、細い顎、鼻筋・・・現地の人たちの顔立ちが美しいと思ったのはこのときから旅の最後まで変わりませんでした。とりわけ、編み込んだ髪をすべて後頭部から垂らす女性の髪型がとても素敵でついつい目で追ってしまいます(↓YouTubeで見つけたお気に入り。音が出ます。カレアブ・キンフェさんという歌手のようです)。
エチオピア独立を脅かし続けたイタリアの影響からか、皮肉にも洒落たカフェがあちこちにあって、一休みするのに困ることはなさそうでした。
ところが、もうひとつの現実を目の前にして早々に面食らいました。極度の貧困です。飢餓に苦しむ世界最貧国のひとつであるのは承知していたのに、通りを徘徊する病人の数に言葉を失いました。彼らの多くは寄生虫のせいで四肢が恐ろしく膨れ上がる象皮病に侵され、満足に歩くことができません。中には失明した人もいます。そして、親のその腕を子供が支えながら、旅行者に群がって布施を乞うのです。ひとりを相手にすれば、大勢が集まって収拾がつかなくなる。私たちは目をぎゅっと瞑って通り過ぎるしかありませんでした。
また、街路にはHIV感染を防ぐ標語が目立ちました。保健当局が手広く設置を推奨しているようです。ああ、だから宿にもコンドームが置いてあったんだ。ようやく合点がいきました。そのうち、アンディーが鼻血を出しました。飛行機で楽々と着いてしまったから忘れていた。そうだ、アディスアベバは標高2,400メートルもあるんだった。ここは世界有数の高原都市で気圧が低いのです。彼はきっと良心の呵責と慣れない気圧に晒されて出血したのでしょう。ちょうど、街路樹のジャカランダが一斉に紫色の花を咲かせて空を埋め尽くす季節で、息を呑む美しさでした。貧困、鼻血、ジャカランダ。これがエチオピア最初の洗礼でした。
私たちはエチオピア北西部を中心にバス旅をすることに決めました。その後アディスアベバでどう過ごしたのか、何日滞在したのか、記憶にありません。今回CD-ROMを整理するに当たって、写真のデータはまったく頼りになりませんでした。すべて日本帰国後にカメラからダウンロードしたときの日付になってしまっていたのです。
確かなのは、初めてのエチオピア料理に感激したことでしょうか。定番はインジェラとワットの組み合わせです。インジェラはテフと呼ばれる穀物を水で溶かして発酵させた上で焼く平たく大きなパンのことで、酸味のある分厚く柔らかいクレープと表現すると良いかもしれません。ワットは野菜、お肉、香辛料を煮込んだおかずを指します。50センチはありそうな大皿に広げたインジェラの真ん中に添えます。私は瞬時にこのお料理の虜になりました。酸味のおかげでコクがあり、たくさんの気泡を含むので溶けていくような食感なのです。後にも先にも外国料理をこんなに美味しいと思ったのは、タイとエチオピアだけです。そういえば、成田を出発したとき酷い下痢だったんだ。こんな滋養がありそうな食べ物に出会えるなんて。飢餓に苦しむ国にそんな美食が存在することは皮肉でした。私たちは言葉にこそしなかったけれど、お肉の入った食事をするたびに罪悪感を覚えました。
朝に街に出てみて気づいたことがあります。ジョギングをする人がとても多いのです。しかも、みんな徒競走に近い速さだっと思います。そう、エチオピアはローマ五輪(1960年)と東京五輪(1964年)の男子マラソンで金メダルを獲得した英雄アベベ・ビキラ(1932〜73年)を生んだ国です。それで、選手として活躍することを夢見る若者がそこら中にいるのでした。もともと身体能力が優れている上、トレーニングにふさわしい高地というのもあります。でも、それだけではない現実が彼らを駆り立てているようでした。そんな風にいちいち感傷的になる自分が日本からのらりくらりやって来たことがますます情けなくなるのでした。
(つづく)
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