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郷里の墓に

 5月15日に私の郷里の墓と、16日に妻の家の墓に参りました。
小山市の我が家を出たのが6時半過ぎ、私の郷里に着いたのが11時ころでした。無人駅になってしまった駅まで甥の連れ合いが迎えに出てくれて、生家に着く前に墓に寄りました。
 今年1月22日に死去した妹がかつて、カロウドを作り先祖の墓石をまとめました。正面に先祖代々の墓石を立て、後ろにぼろぼろになって読めないようになった墓石をぎっしり並べてあります。
 左脇の墓誌に交通事故で亡くなった義弟と妹の氏名が、我が家の氏名とは違います。家を継いだ甥は父の養子になって、我が家の氏名を継いでいますが、現在の墓誌では、義弟と妹の氏名が刻まれています。
我が家の氏名は今のところ断絶の状態になっています。時節の移りを痛感させられました。

 クリスチャンになった今、念仏を唱えるのではなく「安き眠りをこいねがいます」とお祈りしました。
 クリスチャンになったのは私たちと息子の一家だけで、家は代々曹洞宗ですので、生家についてまた甥の連れ合いが仏壇に燈明を点け線香を立ててくれても、異教徒になってしまった私には身の置き所がありませんでした。
 私は所詮、家を出た者、寄り付かなくなっていた者でしかなかったのでした。教団の墓地がつくば市にありますので私たちはそこに葬られます。
 今まで伯父という自分の立場から横柄ではなかったかと、反省させられました。

 帰りがけに「もう今生でお目にかかることもないでしょう。お世話になりました」と丁寧に挨拶してお別れしました。

 小諸市内の妻の生家に寄って義弟夫婦とも会ってしみじみと話しました。もう今生にては機会もないだろうと思い、丁寧にあいさつしました。
 妻の家の同姓の墓には、今の代になってから小さな納骨堂を建立して義父母の骨箱は棚に並んで納まっていました。
 私たち夫婦は義母の勧めで謡曲を習うようになったので、追憶の時に謡う「小謡」を謡ってきました。
 夜学出の私には就職が難しく、会社の正規の社員として就職できたのは27歳になる年でした。その年のうちに結婚して、翌年には息子が生まれました。義父母の応援がなくては子を育てるのが難しいような生活をしていました。
義父母にどれだけ助けられたことか。おおらかで温かだった義父母にどれほど感謝してもし切れません。


墓には絶えず鶯の声が聞こえていました。
「老鶯や郷里の墓に来たり啼く」
ろうおうや きょうりのはかに きたりなく

2022年5月23日


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