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短編小説:護謨の木(前半)


護謨の木
 
 
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 二〇一六年の十二月に過労で体調を崩し、四年半勤めていた会社を辞めた後、翌年の夏に漢字検定準一級、日本語検定二級、ⅯOS、そして趣味で書いている小説の文章力が買われ、都内の出版系の会社に就職することができた。失業中に、それまでやってこなかったことをたくさん勉強した。小説も暇さえあれば書いて手あたり次第に応募した(どれも賞は取れなかったけれど)。勉強するのは楽しかったし、文章を書いているとリラックスできた。それまでやっていた工場の肉体労働(精神労働とも言える)と机に向かって一人で何かをすることとでは、天と地ほどの差があった。そして僕は今の環境が気に入っていた。新しい会社に入ってからも、半年間勉強して試験に合格したのちに、校正士の資格を取ることができた。二〇一八年の三月のことだった。僕は自分の歩きたい道を歩みつつあった。あるいは自分の進むべき道に導かれたと言ってもいいかもしれない。
 それからさらに一年の間に、つまり二〇一八年三月十一日から翌二〇一九年三月十五日までの間に、僕は一つ歳を取り、三つの短編小説を書き、四つの季節を過ごし、十二種類の月をまたぎ、三百六十一回の夜を越え、八百二十二杯のコーヒーを飲んだ。季節は再び春になろうとしていた。
 
           *
 
 二〇一九年三月十六日の晩、勤めている会社の年度末パーティーの熱が最高潮に達した頃、僕は一人で会場を抜け出した。そうしないことにはとてもじゃないけどやっていられなかった。コップの水があふれる前に、蛇口をひねらなくてはならない。あるいは塔の上から風で吹き飛ばされてしまう前に、自ら下に降りて行かなくてはならない。塔の上に立っているところを想像していただきたい。下を見れば街も人も小さく見える。僕は足がすくんで引き返したくなる。外に出て冷たい風にあたり、一人で地面を歩く必要があった。誰にも何も声をかけなかったけど、別に僕一人いなくなったって誰も気にもしないだろう。そう考えるとなんだか悲しい気もしたが、そうすることで皮肉にも、僕は精神を安定に向かわせることができた。いや、あのブラウンのドレスを着た彼女には何か声をかけるべきだったかもしれない。でもどこにも見当たらなかったのだからしょうがないと、今では思っている。
 パーティーの途中、僕は一人の女性とカウンターで酒を飲みながら話をしていた。彼女は高そうなブラウンのドレスに身を包み、絢爛な装飾品をいくつもつけていた。でもどれもとてもよく似合っている。顔立ちは決して万人受けするタイプとは言えないが、どこかミステリアスな中にもかわいらしさを覗かせていた。
「頭の中の荷物が多いときにはね」と彼女は言った。「わたしは家でゆっくり寝て過ごすの。心ゆくまでね。そして頭の中に荷物がないときには(まあ、多少はあっても構わないけれど)、銀座とか表参道とかに出掛けて好きなだけ買い物をするの。つまり、頭の外に荷物をたくさん抱えるってわけ。それが正しい生き方なのよ。わかる? でもまあ、できることならその荷物を持ってくれる人がいたらもっといいんだけどね」。彼女のその話し方には何かしら苦悩を抱えているような気配が感じられた。そういった素振りを彼女自身は全く見せないのだけれど。
「わかる気がするよ」と僕は言った。でもそれは表層的な音の響きでしかなかった。ワカルキガスルヨ―。
 彼女はそのことについてそれ以上は何も喋らなかった。モヒートを飲みながら、BGMに合わせて指で机を叩いていた。しかし彼女の眼はしきりに何かを訴えかけようとしているように見えた。誰に対してだろうか。しかし僕はそれを読み取らなくてはならない。なぜなら僕は彼女のことを気に入っていたからだ。それ以外に一体どんな理由が必要だというのだ?
「ほんとうは今日だって家で寝ていたかったのよ」と彼女はずいぶん後で言った。モヒートはもう空になっていたので、僕はバーテンダーに彼女に新しいものをと頼んだ。
「君の言い方を借りると、頭に何か荷物があるってこと?」
「あんまりこういうことってね、誰かに言うべきじゃないとは思うんだけれど」と彼女は前置きをしてから言った。「同棲していた彼に別れてくれって言われたの。それも今朝よ」
 僕は黙って話を聴いていた。彼女の新しいモヒートが丸いコースターの上に置かれた。僕はカミカゼをゆっくりと味わっていた。
「彼はね、もうどうでもいいという風にすべて話し始めたの。彼が言うには私と付き合う前から別の女がいてね、つまり二股ってやつ。私と同棲を始めた後でもその女と何度も会っていたわけ。二人っきりでね。もちろん会って何をしていたかなんて聞きたくないから聞かなかったわよ。だいだいわかるでしょう?」
 僕は頷いた。僕は少し酔っていたが、彼女の話を熱心に聞くことに努めていた。
「考えたくもないわよね、そんなこと」。彼女の声からは怒りというよりは呆れに近いようなものが感じられた。そしてグラスに口をつけた。「それで、私は彼を家から追い出したわ。とてもじゃないけど一緒にはもう暮らせないって。まあ彼の方から別れてくれって申し出てきたんだけどね」
 その後、他愛もない話をした後で彼女がモヒートを飲み干すと、連絡先の入った名刺を交換した。僕らはなんだかんだ意気投合していたみたいだった。彼女といると僕は周りの喧騒から離れることができた。まるで小さな蚊帳の中にいるみたいに。
「話せてよかったわ。もしよかったらまた飲みましょう。でも今度はもっと明るい話をしたいわね」と彼女は言って小さく微笑んだ。それから彼女は席を立つと綺麗なブラウンのドレスの裾を翻し、酔っぱらった人々の中に消えて行った。彼女の名刺には〈○○株式会社 広報部 佐久間萌〉と書いてあった。広報部。僕がこれまでほとんど関わってこなかった部署だった。
 
 僕も席を離れると会場を回って、何人かの顔見知りと軽い世間話をした。そのうちの一人から女の子を紹介されたのだけれど、とても明るく人当たりの良い子だった。歳は二十四と言っていた。僕より六つ歳下だった。どうやら今年転職してきばかりらしい。彼女と話すのは楽しかったが、話しているうちに彼女のボーイフレンドの話になった。「彼ったらもう、すっごく天然なの」と彼女は言った。「東京の日本橋にほんばしに行くつもりが、間違えて大阪の日本橋にっぽんばしまで行っちゃったんだから」
 僕は彼女と別れると、彼女を紹介した知り合いの男に冗談まじりで「話が違うじゃないか」と言った。別に彼女と親しい仲になりたいなんて考えてはいなかったのだけれど。
「知らなかったんだ、彼氏がいるなんて」と彼は言った。彼は僕と同じ時期に中途採用で入った同期だ。「それに彼女がいつ別れるかわからないだろう? 知り合っておいて損はないさ」
 まあ別にそんなことはどうでもよかったのだ。僕はさっきのブラウンのドレスの彼女のことですでに頭がいっぱいだった。酔っぱらっているせいもあるだろうか。パーティー会場に来ている客はみなテンションが上がり、様々な大声が飛び交っていた。営業の成績がどうとか、最近女房や彼女とはどうなんだとか、つまらないギャグを言い合ったりだとか(それはもう、くだらないものだった)。僕はそんな熱気にうんざりしはじめ、こっそりと会場を抜け出した。普段真面目に働いている―と僕は思っている―人達が羽目を外している光景が、僕はどうしても苦手だった。会場の熱気に少しばかり気持ちが高ぶっていたようだった。三月の夜はまだ風が冷たく、僕はスーツの上にコートを羽織って革靴で駅まで歩いた。歩いているうちに僕は反芻の癖のせいで、だんだん落ち着いてきた。頭を冷ます必要があったのだ。
 駅に向かう途中、僕は誰かに呼び止められた気がして立ち止まって振り返ったのだけれど、そこには誰もいなかった。すると目の前に園芸ショップがあることに気付いて―俯きながら歩いていたので、周りをよく見ていなかった―中を覗いてみると、そこに護謨ごむの木を見つけた。売れ残りのようにそれはひっそりと目立たない場所に置かれていた。僕はその植物に無意識のうちに惹かれ、気が付けばレジに持って行っていた。
「贈り物ですか?」と店主は僕に訊いた。灰色の髭を口の周りにたくわえている。
「いや、うちに置こうと思って」と僕は言った。
「そうですか」、店主はその植物を入れる袋を探しながら言う。「開業や開店祝いか何かで買っていかれるお客様が多いので、最近じゃあなたみたいなお客さんは少々珍しいんですよ」
「そうなんですね」
「まあ、これは売れ残りみたいなものですから、お客さんが買ってくれてこちらとしてもありがたいですよ」
 僕は何も言わずに愛想笑いを浮かべた。なんて言えばいい?
店主は頭を掻きながら言った。「参ったな、ちょっと今ちょうどいい袋を切らしてしまっているみたいで。どうします? 後日ご自宅に送ることも可能ですが」
「いや、このまま持って帰ります」と僕は言った。
「すみませんね」と店主は言った。「落としたりして割らないよう、気を付けてください。一応、緩衝材は巻いておきましたので」
店を出ると、やれやれ、と僕は心の中で呟きながら、今度こそ駅に向かった。護謨の木を手に持ったまま電車に乗って家に帰り、様々な鉢植えが並ぶ場所に新たにその大きな護謨の木を追加すると、さっきまでの気持ちの高ぶりの名残りはすっとどこかへ消えてしまった。あとには別の種類の高ぶった気持ちが残った。今までとはどこか感触が違う。僕はそれを大事に抱えていたいと思った。さっきそうやって護謨の木を持って帰ってきたように。
 
           *
 
 大学を出た頃の話になるが、僕は気持ちの高ぶり(のようなもの)に耐えられなくなると―まあそういうことってほとんどないのだが―よく植物を買っていた。いわゆる観葉植物だ。その頃の僕はそうしないと生きていけないくらい、盲目的に観葉植物を集めていた。そしてそれはもうある種の病と呼んでいいくらいだった。
 なぜ僕がそんな「病」を抱えていたのかというと、それは僕のそれまでの精神状況に原因があった。あるいは思考回路に問題があった。基本的に僕はいつも気分が落ち込んでいたり、あるいは後悔をしていたり、頭の中で言葉や出来事を繰り返したりしていた。いわゆる反芻はんすうという行為である。そしてそんなマイナス思考のサイクルが僕の脳みその通常運転になってしまったせいで、気持ちの高ぶり(あるいは幸福のようなもの)に身体が慣れていなかったということだ。慣れていないせいで、僕はそこから逃れるようになったのだ。それが観葉植物を買うという行為だった。どうして観葉植物なのかは僕にもわからない。しかしそうすることで僕は日常を取り戻すことができた。そう、人はある程度の幸福に慣れておかなくてはならないのだということに、あとになって気付かされたのだった。ある程度の悲しみと、ある程度の幸福。あるいは断続的な小さな幸福。
 そのせいで僕が一人で暮らす都内の1LDKの部屋には、たくさんの観葉植物が並ぶことになった。一年半前に今のアパートに引っ越してきたときに実家から持ってきた物も結構ある。ほとんどはベランダに置いてあり、室内で育てているものもいくつかあった。僕が特に集めていたのはユーカリで、たいして広くもないベランダでいくつもの鉢から大きく幹を伸ばしていた。室内にはガジュマルやユッカ、多肉植物など耐寒性があり、あまり場所を取らないものを飾った。でも最近はほとんど増えていない。
 そして最近の僕の暮らしぶりはというとこんな感じだった。大抵の場合毎朝七時に起きて、コーヒーを淹れてトーストを焼く。身支度を整えると水やりが必要な植物に水をやり(ほとんど水をやる必要はないが)、電車に乗って出勤する。仕事は地味なものだった。元の文章と出来上がった文章とに相違がないか、間違った言葉遣いはしていないか、誤字脱字は無いか、用語の使い方が正しいか、読みやすい文章になっているかどうか。必要があれば赤字で訂正し、特に訂正の必要が無ければ「チェック済みと」書いて提出する。普段から雑誌やテレビの字幕、ネット記事なんかを見ていても、つい間違いを探してしまう。こういうのって習性のようなものだ。校正士の資格を持っているおかげで、多くの校正の仕事が僕に回ってきた。それは僕にとっては喜ばしいことであった。順番が回ってくれば簡単なコラムを書いたりもした。たまにインタビューに同行してそれを録音することもあった。録音したデータは反訳会社に頼んで文字起こしをしてもらう。出来上がった文章を僕が最終的にチェックをする。二年目にしては悪くない仕事ぶりだと思うし、給料もそれなりに貰えていた。少なくとも一人暮らしの独身男性にとっては申し分のない額だった。
 何もなければだいたい夜の七時には帰宅し、夜ご飯を食べるとネットサーフィンをして(あるいは本を読んで)、風呂に入ってから眠る。基本的にはその繰り返しだった。付き合っている恋人もいないので、休日には家でダラダラすることが多かった。時々買い物に出掛けたり、気が向いた時には小説を書いたりした。小説を書くのは大学生の頃から継続して取り組んでいることのひとつだった。小説を書かないときにはギターを弾いた。曲を作ることも小説同様、継続していることのひとつである。そしてそれらはどちらも、ある種の自己治癒的な行為であり、同時にささやかな自己肯定への試みでもあった。
 休日など、家にいるときに時間があれば、僕はゆっくり時間をかけてコーヒーを淹れた。コーヒーは最近になって始めた趣味のひとつだった。一口にコーヒーを淹れると言っても様々な淹れ方がある。僕の場合、コーヒーミルで豆を挽き、フィルターをセットしたドリッパーに粉を入れる。その間に温度計で適温になるように計りながらコーヒーポットでお湯を沸かす。一杯分ならそのままコーヒーカップにドリッパーを乗せて、ゆっくりとお湯を注ぐ。少し注いで蒸らしてから、もう一度注いで一分ほど待って、それから円を描くように再び注いでいく。ボトル入りのコーヒーを飲めば楽なのだが、やはりコーヒーには淹れる工程に愉しみがあるというものだ。香りを愉しみ、作業を愉しみ、味を愉しむ。そういえば趣味でコーヒーを淹れるようになってから、以前のような「気持ちの高ぶりからの逃避」は少なくなったように思う。コーヒーとそのこととの間になんとか因果関係を見出そうとしてみたが、コーヒーの香りにはリラックス効果があることくらいしかわからなかった。
 
 

 
 
 昨夜のパーティーで酒を久しぶりに飲んだけれど、朝目が覚めればむしろ頭はいつもよりすっきりとしていた。これまでも一度も二日酔いになったことはないし、大抵の場合朝は気持ちよく目覚めた。それも七時ちょうどに。別にアラームをセットしているわけではない。そういうのってもう、体に刻みこまれているある種の呪いのようなものだ。
 朝食にトーストを取りながらテレビを点けたけれど、日曜日の朝にはろくな番組がやっていなかった。それでもぼおっと眺めているうちに、昨日のブラウンのドレスの彼女を思い出した。広報部、佐久間萌。名刺にはそう書いてあった。思い出すと彼女は僕の頭の中をだんだん支配していった。でもそれは嫌な感覚ではない。むしろ彼女のことを考えると心が温かくなっていくのを感じた。それは久しぶりの感覚だった。小中学生の時に好きな女の子の名前をノートに書いてみるような、淡い感覚。僕はテレビを消して椅子の背もたれに寄りかかって、昨日の佐久間さんとの会話を思い出していた。「つまり、頭の外に荷物をたくさん抱えるってわけ」と彼女は言った。それから彼女の綺麗な横顔を思い浮かべた。どこか影のある瞳をしている。「婚約していた彼に別れてくれって言われたの。それも今朝よ」。思い返してみると、僕は彼女の話を聞いているだけで、自分の話はほとんどしていなかった。それに、僕は彼女に何かかけるべき言葉があったのではないだろうか。
 ふとベランダを見ると、つやのある大きな葉をつけた護謨の木が目に入った。その左右にうねった幹は、駅前や美術館に聳え立つ銀色のオブジェを思わせた。最初のうちそれはやけに目立って見えたけれど、見ているうちにだんだん自宅のベランダによく馴染んでいった。悪くない。そして僕は佐久間さんのことを考えている。ふっと、口の中で昨晩飲んだカミカゼの味がしたような気がした。
 昨晩机の上に置いた彼女の名刺を手に取って眺めてみると、ポケットにそのまま入れていたせいで多少角が折れ曲がってしまっていた。そこには個人のLINE ⅠDも載っていた。僕は彼女にLINEのメッセージを送ろうかとも思ったけれど、一体何を書けばいいのかよくわからなかった。〈昨日は楽しかった。また会えないかな?〉とか、〈君とまた話がしたいのだけれど、どこかで会わない?〉とか、思い浮かんだ文言はどれもキザで図々しく思えたので、結局そっけないものを送った。〈昨晩はありがとう。話せて楽しかった。〉と。一応の礼儀として。そして例によって、それでよかったのかどうか反芻して考えてしまう。
 僕は名刺を元に戻すと、ソファに座って読みかけの本の続きを読んだ。ジョン・チーヴァーの分厚い短編小説集。読書に集中することで意識を物語の世界に向けようと試みたが、読み進めているうちに途中でやはりスマートフォンが気になった。時折画面を点けて確認するが、特に誰からも連絡は来ていなかった。ふと窓の外を見ると、曇り空の街に静かな雨が降っていた。もうすぐ昼になろうとしていた。
 僕は雨を眺めながら、上下に半分に切ったリンゴを皮ごと齧った。みずみずしくて美味いリンゴだったので、ラップで包んでおいたもう半分も一緒に食べてしまった。僕は思うのだけれど、雨を眺めながら食べるリンゴが一番美味い。もちろん個人の感想である。リンゴを食べ終えるとコーヒーを淹れて、冷凍パスタを解凍して食べた。彼女から返信が来たのはその日の夜だった。
 
〈返信遅くなってごめんなさい。私も話せてよかった〉とそのLINEにはあった。〈もし迷惑じゃなかったら、週末にでもランチなんてどうかしら? きっと桜も咲いていると思うの〉
〈もちろん。誘ってくれてありがとう。迷惑なんかじゃないよ。それに土日は基本的にいつでも空いている。〉
 結局僕らは次の土曜日に東京駅前で待ち合わせることにした。そこがそれぞれの家のだいたい中間に位置していたからだ。そして店はその日の気分で決めることで僕らは合意した。LINEを閉じると、僕はベランダに出てユーカリと護謨の木を触り、匂いを嗅いだ。昼間の雨のせいもあるだろう、まだ土は乾ききっていないので水をやる必要はない。あと一週間はもつだろう。ベランダのベンチに座って空を眺めると、綺麗な細い月が浮かんでいた。どうやら雨雲はもうどこかに行ったみたいだった。昼から外を見ていなかったせいで、そのことに僕はなかなか気付かなかった。
 
 それから一週間が何事もなく通り過ぎて行った。何事もなく、ということ自体が久しぶりだったような気もする。いつも僕は何かと気に病んでいたからだ。でもその間に考えたことはたくさんある。そして会社でも佐久間さんには一度も会わなかった。
 月曜日の夜に仕事から帰ったあと、気が向いたので机に向かって新しい小説を書き始めた。物語は、主人公がまだ幼かった頃の記憶の回想から始まる。書き出しはこうだ。「ぼくがまだ小学生だった頃、ひとりの好きな女の子がいて、ある日ぼくはその子の頬にキスをした」。そしてそのまま僕は走って何処かに行ってしまう。別にその子は嫌がりも喜びもしない。なぜならそれはあまりにも一瞬の出来事で、しかもぼくはそのまま何処かに行ってしまって、彼女の反応を見てもいないからだ。それは二月の出来事で、バレンタインデーにはその女の子がぼくにブラウニーを作って家まで持ってきてくれた。その時にうちの母親が、ぼくらが並んでいる写真を撮ったことを覚えている。服装だって覚えている。でもその写真は家のどこを探しても見つからない。でもその写真を僕は確かに見たし、母親がそんなものを処分するはずもないので、家のどこかにはあるのだ。ぼくはまだそれを見つけられていないだけなのだ。まるで校庭のどこかに埋めたタイムカプセルみたいに。
 まだ冒頭の部分だけだったけれど、だいたいこんな感じだった。主人公の「ぼく」はその女の子との写真を探すことになる。そしてそれに伴って様々なことを回想する度に、「ぼく」はその時代にタイムスリップする。
 毎日少しずつ書き進め、金曜日の夜にちょうどいいところまで書き終えてから眠りに就くと、宗教画的な光に包まれた土曜日がやってきた。佐久間さんと会う約束をしている日だった。
 
 東京駅丸の内中央口の駅前広場に彼女の姿はあった。この前会った時とは全然印象の違う格好をしていたせいで、すぐには彼女に気が付けなかった。彼女は白いフリル付きのスカートに、ベージュのセーターを着て薄い水色のカーディガンを羽織っている。髪はポニーテールの形に結ばれ、エコーの白いスニーカーを履いていた。装飾品らしきものは何も身に着けていない。パーティー会場にいた時の絢爛さとは逆に、簡素ですっきりとした感じがした。それはなんだか少し意外な気がしたが、今目の前にいる格好の彼女も僕は好きだった。そして彼女のそばにいるとユーカリの精油のような爽やかな匂いがした。
「ごめん」と僕は言った。「待たせちゃったかな」
「ううん、私も今来たところ」と佐久間さんは言った。「それと、来たばかりで申し訳ないんだけどね、今日夕方前には帰らなくちゃいけないのよ。明日までに終わらせないといけない仕事が来ちゃって」
「僕は全然構わないよ。君に用事があるのなら、僕がそれに口を出す権利はない」
「ありがとう。やさしいのね」
 土曜日の東京駅前には荷物を抱えた人がたくさんいた。みんな何処か遠いところへ行くのだろう。
「この前会った時とはずいぶん違うみたいに見えるけど」
「普段は地味なのよ」と彼女は言った。「あなたはこの前となんら変わりなく見える」
「ワンパターンなんだ」と僕は言った。パーティーには会社のスーツで行ったし、今だって黒いジャケットにグレーのチノパンツという格好だった。
「そういえば日比谷公園に、ビールが飲めるガーデンテラスがあったと思うんだけど、どうかしら?」
「いいね」と僕は言った。「天気もいい」
 
 彼女の言う通り、日比谷公園の中にそのガーデンテラスはあった。休日のランチ時なだけあってさすがに店内は混み合ってはいたけれど、僕らはなんとか真ん中に白いパラソルが立った丸いテーブルが並ぶ一階のテラス席に着いた。ビールと料理を頼むと軽く乾杯をした。佐久間さんはドラフトギネスを、僕はサッポロ黒ラベルを飲んだ。良く冷えた美味いビールだった。僕らはご飯の上にフライエッグの乗ったタイ料理を食べ、トルティーヤピッツァをシェアした。屋外で誰かと料理を食べるのはとても久しぶりな気がする。
「私今一人で暮らしているんだけど、悪くないわね」と佐久間さんは言った。「寝たいときには好きなだけ眠れるもの」
「好きなだけ買い物もできる」
「そうね」と言って彼女は笑った。
「でも元気そうでよかった。かなり落ち込んでいるんじゃないかと思って」
「意外とタフなのよ」
「それにしても、なんで君がそんな目に合わなくちゃいけないんだろう」と僕は言った。
「でも世の中にはもっと残酷な状況があるわ」と佐久間さんは言った。「想像もできないくらいのね」
「そうかもしれない」と僕は言った。
「もともとみんな平等なんかじゃないのよ」と彼女は言ってビールを一口飲んだ。とても美味そうにビールを飲む。「たとえば、まあこのたとえが合ってるかどうかわからないけれど、有名人がツイッターで何でもないことを呟くとするでしょう。そうすると何千、何万といいねがつくわけ。俳優とかアーティストとか。でも私やあなたが同じことを呟いたってひとつも反応なんて返ってこない。そういうことなのよ。そういう意味でも全然平等なんかじゃない。だっておんなじことを思いついているんだからね。でもビールは平等に美味しい。そして私たちはそれを自分で選ぶことができる。私はドラフトギネスを、あなたはサッポロ黒ラベルを選んだみたいに。私たちはけっこう幸せに暮らしていけるのよ。それになかなか気付けないだけでね」。
 佐久間さんの言っていることは実に説得力があったし、どこか強さすら感じられた。
「なるほど」と僕は言った。
「少なくともそういうことは学べるわね、SNSでは」と彼女は言った。「ところで、あなたはSNSをやっている?」
「一応やっている。情報を得る分には役に立つ」
「意外ね」
「そうかな」
「やっていそうに見えない」と佐久間さんは言った。
「それに……」と僕は言った。「それに、遠くにいる友人を知ることができる」
「遠くにいるのね」と彼女は言った。
「うん」
「最近じゃ会っていない」
「もう七年くらいになるかな」。七年。長い歳月だ。新生児は小学生になり、中学生は大学生になる。僕は―僕は何も変わっていなかった。
「会うべきよ」
「え?」
「あなたはそのお友達に会うべきよ」と彼女は言った。「他にお友達はいるのかしら」
「大学からの友達が一人いる」
「その人とはどう?」
「会ってるかって?」
「そう」
「彼は最近結婚したみたいで、なかなか最近じゃ会えていない。二か月に一回くらいは会っていたんだけど」
「ふうん」と佐久間さんは言った。「じゃあ尚更その遠くにいるっていうお友達に会った方が良いと思うわ。どんな事情があるのか分からないけれど」
 僕は黙ってビールを飲んだ。なんて言えばいいか分からなかった。
「ねえ、ナカムラ君。あなたはきっと寂しいのよ。でも悲しいとは思いたくない。そうじゃない?」
 彼女の言う通りだ、と僕は思った。寂しいけれど悲しくはない。というか悲しいだなんて思いたくなかった。なあ、それを強がりって言うんだぜ、おれ。
「そうかもしれない」と僕は言った。
「私はあなたに健康でいてもらいたいのよ。嘘じゃなくて」。佐久間さんは僕の目を真っ直ぐに見つめていた。あるいは僕の目の辺りを見つめていた。それだけは誰にも分らない。なぜなら意外と人の目をじっと見ていると、本当に目を見ているのかどうかわからなくなってくることがあるからだ。
「ありがとう」と僕は目を逸らしかけてから言った。そんなことを言われたのは初めてだった。
「然るべき場所に身を置くっていうのも大切なのよ。それはある意味では自分を守るという行為でもある。それに、そんなに傷ついてばかりいられないでしょう?」
 そのときちょうど公園の方で、ペリカンの形をした噴水から水が出るのが見えた。暖かい風に乗って飛沫(しぶき)がキラキラと光った。
「ねえ、少し散歩をしない?」と僕は言った。
「いいわね」と彼女は言った。
 
           *
 
 遠くにいる僕の友人の名前は「J」と言った。もちろんちゃんと「鈴木潤」という本名がある。でも僕は彼のことを昔からJと呼んでいた。周りもそう呼んでいた。大人になってからも僕はそう呼んだ。彼は僕のことを「ケンジ」と呼んだ。僕の下の名前が健二けんじだからだ。ナカムラ・ケンジ。
「遠くにいる」と言っているが、実際に物理的な距離としてJが遠くにいるのかどうかはわからない。それでもとにかく彼は僕の前から姿を消し(正確に言えば僕の方から姿を消したわけだが)、年々Jと僕との間の距離感のようなものは大きくなりつつあるように感じていた。彼は遠くに行ってしまったのだ。あるいは僕が遠くまで来てしまっただけのかもしれない。
 一度だけJのためにギムレットを飲んだことがある。でも途中で急に空しくなってやめた。あとはただ酔っぱらうためだけにそのカクテルを飲んだ。結局その日は珍しくひどく酔っぱらって、タクシーに乗ってなんとか家に帰るという始末だった。その日のことはもうほとんど覚えていない。
 Jは大学に入った頃から徐々にラップにのめりこんでいった。もともと僕らは一緒に曲を作ってアマチュア・ライブに出たりしていたのだが、Jがラップをするようになってからは一緒に曲を作ることも少なくなっていった。それからまあ色々あるのだけれど、七年前にJが主催するライブに出て以来、Jとはもう一度も会っていない。
僕らは幼稚園の頃から知り合っていた。中学に入って再開し、僕らは友達になった。しかし突然(あるいは徐々になのかもしれないが)、僕らの関係は事実上断たれてしまった。たぶん僕が悪いのだ。僕がライブ会場から黙って抜け出して、勝手に帰ったのがいけなかったんだ。でもどうだろう、もしも僕らがそのときまだ親友だったのならば、Jは僕に連絡くらいくれてもよさそうだった。でもそれ以来Jからは一度も連絡は来ていない。僕は少なからずそのことで落ち込んだ。
 前にJのSNSを見た時に、彼がラジオパーソナリティをやっていることを知った。三年前だっただろうか、実家で中学の技術の授業で作ったラジカセをいじっていると、たまたまJのラジオが聴こえてきたことがあった。でも僕はJのラジオをその後聴くことはなかった。
「会うべきよ」と佐久間さんは言った。「あなたはそのお友達に会うべきなのよ」
 
          *
 
 ランチの後で僕と佐久間さんは日比谷公園の中を歩いた。散歩をするには気持ちのいい天気だった。風は生暖かく、光の粒子が僕たちを包み込んでいた。大きく息を吸うと春の匂いがした。桜が咲き始め、時々風に吹かれた花びらが千切られた日記のように地表に舞い落ちていった。樹木が過ぎゆく季節を眺めながらその胸の内にしたためた記憶を、薄桃色の花びらに変えて春に放つのだ。ふとそんなことを考えた。
「私、春って大好きなの」と佐久間さんは言った。「一年のうちでいちばん幸福な匂いがする」
 彼女がそう言うとたしかにそんな気がしてきた。幸福な匂い。僕はもう一度大きく息を吸い込んだ。「ほんとだ。そんな気がする」。それから家のベランダに置いてある植物のことを思い浮かべた。
「満開になったらもっと素敵ね」。彼女は桜の木を見上げながら何かを思い出しているように見えた。あくまでそう見えただけだ。
「いつ頃かな」と僕は言った。
「きっと来週よ」と彼女は言った。「そして春の風が吹いて、地表はすぐに花びらで埋め尽くされる。刹那的な美ね。なんだかとても日本人的。そういうのって私好きよ」
 僕は一瞬佐久間さんの手を握ろうとしたが、思い直してやめた。まだ最初のデートなのだ。というか、これをデート呼んでいいのかも僕にはわからない。僕には色んなものがわからなすぎるみたいだ。
 そのときどこからか音楽が聴こえてきた。よく聴くとそれはスピッツの『スピカ』だった。辺りを見回してみると、ちょうど小音楽堂で音楽ライブをやっているみたいだった。カバー・バンドだろうか。『スピカ』は今から二十一年程前に発売された曲だ。一九九八年。僕はまだ九歳だった。どうしてだろう、僕はその曲を特に好んで聴いていたわけではなかったし、その曲が特に世間的に大ヒットしたわけでもなかった。それでも僕はその曲の歌詞を隅から隅まで歌うことができた。もちろん心の中で声には出さずに。
「落としたわよ」と佐久間さんが言った。
「え?」
「ほら」。彼女が持っていたのは僕の白いハンカチだった。ズボンのポケットから落ちたのだろうか。
ありがとう、と僕は言ってハンカチを受け取った。
 
 東京駅まで歩いたあとで、我々は別れた。まだ昼の三時過ぎだった。
「ごめんなさいね、家でやらなきゃいけないことがたくさんあるのよ。少し酔っぱらっているけれど」と佐久間さんは言った。「もっと居られたらよかったんだけど」
「全然。ありがとう、誘ってくれて」と僕は言った。「またいつか会えないかな」
「もちろん。でも今度はあなたから誘ってちょうだい」、そう言って彼女は片方の口角を少しだけ上げた。初夏の日差しのような素敵な微笑みだった。そして彼女の肩には桜の花びらが一枚乗っていた。
「わかった」と言って僕はその花びらを彼女の肩から取った。
「ありがとう」と彼女は言った。そして少しだけ悲しげな顔をした。でもそれはほんの一瞬の出来事で、次の瞬間には笑顔で手を振って駅のホームへ階段を降りて行った。
「じゃあまたいつか」と彼女は言った。
「うん、またいつか」と僕は言った。
 僕はそのいつかが来ることを願わずにはいられなかった。
 
 (後編へ続く)

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