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フランツ・カフカ:変身(膨張する本の記録―【シリーズ1】昔読んだ小説類の記録4)

その1


作者:フランツ・カフカ [Franz Kafka]
作品:変身 [英語:The Metamorphosis]
発表年:1915年
物語の時代:不明だが、その当時における現在であると考えられる
物語の場所:主人公(グレゴール・ザムザの家)[Gregor’s house]

この小説を読んで衝撃を受ける世界中の数多くの人と同じように、私も大きなショックを受けた。特に、「大人の小説」を読んで間もない時期の素朴な読者だったので、一気に読み終わっていわば狼狽えたのを覚えている。
その理由は、主人公のグレゴール・ザムザが巨大な毒虫に変身し、死んで行くというストーリーのせいではなかった。ゴジラや、ウルトラQやウルトラマンやウルトラセブンで、あるいは怪物君やゲゲゲの鬼太郎で、怪獣や怪物、妖怪や化け物は、その頃の子供の日常生活の中に入り込んでいたので、その設定自体には、一通りの驚きを感じただけだった。
私は素朴な読者として、「なぜ主人公は巨大な毒虫に変身したのか」という疑問への回答を期待して、物語を読み進めて行ったのだが、その回答は全くないどころか、物語は勝手にどんどんと激しく進み、そしていきなり、呆気なく、終了してしまった。
私は何かはぐらかされたような気がした。「金を返してくれ」、という気分である。完全な素朴読者として、私は、「何か悪いことをした主人公が、罰が当たって、毒虫に変身した」というようなストーリーを期待していたのだと思う。何よりも、作者が、その経緯を丁寧に読者に「説明」してくれることを期待していた。それで納得し、安心して眠りたかったのだが、結局宙吊りにされてしまった訳だ。
金を払って一冊の本を買い、短いとはいえ、結局一編の小説を読んだのだが、安心させてくれるどころか、あるいは感動させてくれるどころか、安眠を妨げる効果だけをもたらして、さっさと逃げ去ったのである。
前の『二十四の瞳』に関する記事の中で、小説の文章は主に、描写・会話・独白・説明から成り立っている、ということを書いた。カフカの『変身』には、それらすべての要素が含まれている。説明の文章もふんだんにある。その意味では『二十四の瞳』と同じである。
しかし、「肝心要の要素」としての説明がないのだ。どうでも良い説明や描写や会話ばかりが満ち溢れている。その意味では、欠陥商品である。まるで作者が、どうでも良いことだけを書くことを決心しているかのように私には思えた。
これが―上で書いたような性格が―「大人の小説」の一つの姿であることを私はすぐに認識するようになったが、最初にこの作品を読んだ際の、上のような意味での衝撃は、今でも忘れることが出来ない。
少し理論的に言えば、上記のように、この小説は表面的には非常に写実的であるだけでなく、伝統的もしくは典型的な小説の手法が使用されている。描写だけでなく説明も使用されているし、会話もあるし心理描写もある。しかし多分誰もが感じるように、何かが変である。しかし、文章の意味的構成要素にも、語り口そのものにも、特に変な所がない。とすれば、何が変なのであろうか?
物語は物理的な構成物ではなく、いわば心理的な構成物である。しかし、構成物であることには変わりない。ということは、それが特定の要素から構成されているということを意味する。そこで、ある小説において、何かが変だとすれば、如何なる要素が、如何なる形で変なのか、ということを検討すれば良い、ということになるだろう。
『変身』においておかしいのは、恐らく語り手のあり方だと思う。説明もするし描写もする。しかし、その立ち位置には、いわばメタレベルというものが全くないように思える。この現実を認めた上で(良いと認めるとか、悪いと認めるとか、評価や価値判断抜きの意味での「認める」である)、それにべったりと寄り添って、只管に「作業」として物語を書き連ねる、そのような意味での立ち位置である。
従って、この語り手は、ある人物が毒虫になっても、その理由を考えるでもなく、それを不思議と思うでもなく、ただ淡々と起こったことを記述して行くことしかしない。作業として命令されたからしているだけ、という開き直った態度のようにも見える。私のような素朴読者が、その理由の説明を求めても、この語り手はそんなことには全く興味を持っていないし、そもそもそういう意味での「読者サービス」をする必要性も全く感じていない。
仮に、「語り手のスコープ」という概念を想定してみよう。スコープとは、ある物語の語り手が、どの程度の範囲を見、認識しているかという、その範囲のことである。『変身』の語り手のスコープは、非常に小さい、ということになる。具体的には、グレゴールとその家庭の中しか、この語り手は見ていない。グレゴールが死んでいなくなった後、語り手のスコープが家庭の外にも広がって行きそうなことが、最後の方のページで示唆されるが、それはもう、『罪と罰』ではないが、この物語の外の出来事である。

他にも書きたいことはあるような気がするが、やがて膨張させて行く機会もあるだろうので、取り敢えずここでやめておく。

この小説も私は、講談社文庫版で読んだと思う。しかしそれはアマゾンでは検索できなかった。入手しやすいものを幾つか挙げておく。







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