後鳥羽上皇の住まいを再考してみる。

海士町に行った際、隠岐神社を訪ねた。

隠岐に流された上皇、というと少しさみしいようにも感じるが、後鳥羽上皇の場合、この地で歌合(うたあわせ)をしたり、『隠岐本新古今和歌集』を自ら編纂したり、さらには刀鍛冶を呼んだ、などの言い伝えまであり、活動的に過ごしていたのではないか? と思う。

では、どんな住居であったのか? が気になるところ。江戸時代に残っていた、源福寺(だと思われる)資料は、こちら。

源福寺

上記の絵だと、山村の豪商の家、みたいなイメージ。実際、鎌倉時代中期に活動した一遍一行を描いた絵巻『一遍聖絵』に出てくる「大井太郎の館」と、似ている部分もある。

しかし、流されたとはいえ、上皇だった人が豪商みたいな家に住むのだろうか? さらに京から離れた隠岐で、鎌倉武士(また遠い!)の家を再現したのか? と考えると、ちょっとむずかしいのではないだろうか。そんなに情報が早く伝達する時代でもないし。

というわけで、私は平安時代の寝殿造りのような建物が実際に後鳥羽上皇が過ごした母屋で、それに離れとして、使える人の居住する部屋があったのではないかと思う。少し書院造のエッセンスにつながるような。とはいえ、足利義政が建てた書院造りが出てくるのは、まだまだ先なので、他がどうなっているかはわからない。また、穏やかな生活を好んだ義政と、規則性も大胆に解釈して自由に和歌を読むワイルドな後鳥羽上皇では性格も真逆に思う。似ているところといえば、源氏物語が好きってところだけか。具体的に何帖が好きなのか、ビブリオしてほしいけど。(キャラ推し全然違ったりして!)

--と、閑話休題

つまり、わたしの想像する後鳥羽上皇の主屋(広さ約3LDKだから、およそ60平方メートル~70平方メートル)はこんな感じ。

画像2

ドーン!

……いや、わかりますよ。言ってくださいますな、画のクオリティについては。(というか、画のレベルなのか、これ?)

画がわかりにくいので、説明いたす。母屋の中には、御帳台(天蓋付ベッド)、寝室と人を呼ぶスペースを几帳か何かで区切って、対面スペースとして、高さのある畳、さらには和歌に親しんだ後鳥羽上皇には文台はマスト、細かくて描けなかったけど、火取り香炉なんかがあったのではないかと思う。

もっと住居に詳しい方、こうじゃないよ! っておっしゃる方、ご意見はどしどしとお寄せください。超素人考えなので、間違っている部分が多いハズ。

この画を、これを弊社の映像制作担当に見せたら鼻で笑われた。そんなわけで、この画はここでボツ。後に、フルCGとVRで後鳥羽上皇母屋跡を再現してみようかと思っている。乞うご期待! 

(この他にも、今は無くなった建物の再現とかしてみたいなー!)

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