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越境する教育学のルーツを探る:Holistic Curriculum編(上)

  *このnoteは 現在(2024.6.5) 加筆修正・更新中です(成田喜一郎)

はじめに

わたくしは、1970年代の大学・大学院で日本近現代史を研究し、大学院修了後、縁あって「学校というフィールド」(東京学芸大学附属大泉中学校)に飛び込み、「社会科歴史」教育の実践をめざした。

1980年代以降、時代の要請やフィールドから立ち上がる課題を受けて、「帰国子女」教育、「国際理解」教育、「消費者」教育、「環境」教育、「シチズンリテラシー(シティズンシップ)」教育など様々な領野を越境してきた。

Holistic Curriculum/「ホリスティック」教育との「出会い」

公私ともに切実な課題を抱えていた1994年夏、ある書店で偶然、John・P・MillerのHolistic Curriculum/ホリスティック教育:いのちのつながりを求めて(1988/1994和訳、春秋社)に「出会い」、その後、翻訳者のおひとり手塚郁恵さんに「出会い」、東京ホリスティック教育研究会に参加してゆく。そこで、N.Tさん(私立高校物理、写真家)、Y.Eさん(公立小学校・シュタイナー教育実践)、O.Sさん(家族機能研究所附属IFF相談室/常勤、私立養護学校/非常勤)と出会う。

1994年の夏は、John・P・MillerのHolistic Curriculum(和訳:春秋社、1994年)と「出会う」だけではなく、大須賀発蔵さんの「東寺の立体曼荼羅/四天王が私たちに問いかける華厳哲学」の講義(『いのち分あいしもの:東洋の心を生きる』柏樹社、1987年)に「出会い」、河田宣世さんの驚くべき詩「まだ おさないころ」(内田伸子さんの『想像力:創造の泉をさぐる』講談社現代新書、1994年)に「出会う」という珠玉のような朱夏でした。その後のHolistic Curriculum研究-実践の理論的哲学的な「礎」に出会ったことになる。

また、のちに日本の「ホリスティックな」教育の理論的支柱となられる吉田敦彦さん、中川吉晴さん、今井重孝さん、金田卓也さんら研究者の方々と出会ってゆく。

1995年、わたくしは、実践・研究ノート “Holistic Curriculum”とは何か?—中学校社会科教師の視点で考える—(『研究集録/東京学芸大学附属大泉中学校』第36号、1995年、p.1-16)を書き、自分のフィールドと専門としていた社会科/Social studiesに引き寄せながら、Holistic Curriculumを捉えようとした。これはわたくしがHolistic Curriculumについて、初めて記述言語化した作品であり、その後、研究-実践実践史に通底する理論・哲学の原点ともなる作品である。

1996年6月から1998年6月、学級担任をしていたわたくしは、物語 1年1組「てだのふあ物語」を『季刊 ホリスティック教育』誌(創刊準備号〜第8号)に6回(未完)にわたって連載する。

1997年2月、わたくしは、社会科における「ホリスティックな教育」の実践—「自立共生・共生共存」をめざす《つながり・かかわり》を求めて(『現代のエスプリ:ホリスティック医学と教育—いのちを包括的に観る』No.355、至文堂、1997年2月)を書いていきます。拙稿の「子どもたちの心やからだ・生活・社会・自然・地球などのすべてとの《つながり》や《かかわり》を包み込み、子どもたちが自らそのつながりやかかわりに気づき、そのつながりやかかわりをよりよいものに変えていこうとするのを援助・促進する営みである」(p.169)は、小林節子(2000)『データーの中から見えてきた!教育・新時代のパラダイム』(文芸社, p.155)で引用された。

1997年3月、わたくしは、初めての単著『中学校社会科授業ディベートの理論と方法:「自立共生・共生共存」をめざす 』(明治図書)を出した。
本書を執筆することになったのには、以下のような文脈がある。
他者を論破するための競技ディベートではなく、自立共生・共生共存をめざすディベート実践をしていたとき、子どもたちの思いや願いをもとに作った寺澤満春の創作叙事詩「ある日、教室にディベートがやってきた 」を研究会などで紹介していた。その詩が、なぜか、明治図書の樋口雅子編集長のところに渡った。この詩を読んだ樋口さんからお電話が入り、本書を執筆することになったのである。しかし、依頼されてから、その後もディベートに関する研究-実践を続け、刊行にこぎつけたのは4年後だった。

なお、本書の「社会科授業ディベートのめざす「自立共生・共生共存」とは何か」(本書 p.70-95)では、1970年代から1990年代半ばまでの多様な領野の「共生論」を紹介している。ちなみに、注目される「共生論」が再び展開されるのようになるのは、東日本大震災・原発事故の起こった2011.3.11以降、特にコロナ的状況下の2020年に入ってからのことであると思われる。
わたくしが、注目した「共生論」関係文献(例)を挙げておく。時あたかも学校法人自由学園女子部・男子部(中等科・高等科)が「共生共学」をめざしていた時期と重なる。2024年4月、長い伝統を超えて「自由学園中等部・高等部」として「共生共学」になった。
2020年代前後の「共生論」関係文献(抄) ☜ このWeb Siteを作成するために、改めて「共生論」に関する文献を検索していたら、2021-2024年に多様な領野における「共生論」関係文献が出版されていることに気づき、驚いた。

1997年3月、私は、修学旅行・岩手県和賀郡沢内村を訪ねて―いのちのつながりを学ぶ子どもたち―(『季刊ホリスティック教育』第4号、p. 65-71)という作品を書いた。これは、1990年5月に実施された修学旅行でしたが、記述言語化(書字文化)記録となったのは8年後になりました。

1997年6月、東京・国立教育会館にて、日本ホリスティック教育協会の創立総会に参加する。『季刊 ホリスティック教育』(1997年12月 第6号〜1998年9月 9号)の編集委員会代表となり、特集「教師がホリスティックな教育に目覚めるとき」「子どもの声に耳を傾けるとき」「21世紀の学校を創造してゆくために」「ホリスティック教育 in にいがた」を発行してきた。
『季刊 ホリスティック教育』誌は、1996年9月 0号 から2000年3月 15号まで刊行された。国立国会図書館には所蔵されていないが、CiNiiによると、7大学の図書館には所蔵されている。わたくしは、「日本におけるホリスティック教育のあゆみ1996-2000—『季刊ホリスティック教育』誌の分析を中心に—」(『ホリスティック教育研究』第6号、2003年、p.39-49)という作品を書いた。

1998年6月、私は、実践報告 わたくしの中のホリスティックな教育—宮沢賢治と井上陽水、そして子どもたちとのつながり—(『ホリスティック教育研究』第1号、1998年、p.55-70)という作品を書く。成田(2002:1-22)

1998年5月、日本ホリスティック教育協会主催年次シンポジウム「いのちのつながりを活かすセミナー:21世紀の学校をどうつくる」(新潟・長岡リリックホール)司会:山之内義一郎、パネル:清水義晴、佐川通、成田喜一郎ほか。特別講演:金顕宰・金明子。

2000年、1997年に寺澤満春(わたくし)が書いた詩「阿修羅との対話」をもとに、物語/short short story「Asuraたちの履歴書」という作品を書いた。この物語は、中学生のための物語として書いたが、中学生からは不評だった。しかし、現代の「Asuraたち」が抗争する/していたカンボジアやチモールなどのフィールドで「平和構築」の仕事をしていたあるNGOの方には深く受け止められ、この物語を英訳したいとのお言葉を頂いた。

2002年3月、わたくしは、ひかりとかげとその狭間より(ホリスティックな気づきと学び:45人のつむぐ物語/教育ガイドブック:ホリスティック教育ライブラリー❷』せせらぎ出版、p.76-80)

2002年4月、初めての人事異動を経験する(東京学芸大学附属大泉中学校から世田谷中学校へ)。異動して5か月が過ぎた8月、まさに突然「突発性難聴」になり、10日間入院するも聴力は完全に戻らなかった。
この病の原因はいろいろあるようだが、同じ大学の附属学校間の異動ではあったが、異なる学校の歴史と文化との「出会い」(経験主義的伝統から系統主義的伝統へ)に悲喜交々の日々を送った。なぜか「大学改革委員会」のメンバーになってしまい、附属学校を含めた教員養成大学の将来構想を議論するため、世田谷から会議が開かれる小金井キャンパスまで向かわねばならなかった。
ただ、世田谷中学校では、何の役職も持たず、ただ、ひたすら社会科歴史及び地理の実践と、第1学年の学級担任に専念できたことは有り難いことだった。しかし、わたくしにとって、これが教諭としての最後の仕事になった。次年度、附属大泉中学校に戻り、副校長にならなければならなくなったからである。

教諭としての学びと暮らしがあと5か月となった晩秋、わたくしは、偶然/突然、「黒板画家」になった。担任をしていたクラスの黒板や社会科教室の黒板に、始業前だけの刹那の作品を描いていった。5か月だけの黒板画家


2003年3月、わたくしは、ホリスティック・カリキュラム論序説(『ホリスティック教育ガイドブック/ホリスティック教育ライブラリー❸』せせらぎ出版、p.73-77)を寄稿する。たった5頁の作品だったが、やく10年間のわたくしの学びと暮らしと仕事から映し出されたHolistic Curriculumの概説となった。とりわけ、わたくしのオリジナルである3つの図「子どもたちをめぐるホリスティックな教育・学習の世界」「子ども(人間)の外的世界の構造(接点隣接楕円)」子ども(人間)の内的世界の構造」は学校というフィールド実践の中からで創成されてきた「図解/schema」である。

2003年4月〜2007年3月、1年間の人事異動を終えた私は、社会科教諭から副校長へ「昇任」。自ら望んだ職ではなかったため、「違和感/negative capability」を抱えながらも「管理とは何か」「組織とは何か」「和み安らぎ(安全・安心)とは何か」などという「Essential Questions/本質的で根源的な問い(永続的な理解と思考をもたらす問い)」を抱えながら、過ごす。

副校長の仕事としては、前任者からの引き継ぎ事象だった「同時多発いじめ」、突如発生した「SARS/重症呼吸器症候群」への対応など子どもたちと先生方の「心や身体のケア」、学校における「危険予測・危険回避」教育と「和み安らぎのための危機管理システム(メンタルサポート・リーガルサポート)」の構築、学校/教師のための「個人情報保護」の実践、大泉キャンパスにおける「中高一貫/中等教育学校づくり(国際中等教育学校」へのデザイン(国際バカロレアMYPカリキュラム)とプロセスなど、濃密な4年間となる。


2003年8月、東京・有明のパナソニックセンターで、金田卓也さんを中心に、キッズ・ゲルニカ 2003 ピース・バザールが開催された。私は、キッズ・ボイス・ライブ 子どもたちによるピース・トーク「世界の平和は大人にだけはまかせられない!」のファシリテーターをした。Mr. Narick が、寺澤 満春作詞・作曲の「風と湖水と人々と」(オープニング)と「ときのまほろば」(エンディング)を歌い奏でた。

2004年3月、わたくしは、キッズ・ゲルニカ2003でのファシリテーションをもとに、「平和」ということばのない民族に学ぶ—ウィルタのゲンダーヌとの出会い—(日本ホリスティック教育協会、金田卓也・金香百合・平野慶次編『ピースフルな子どもたち:戦争・暴力・いじめを越えて/ホリスティック教育ライブラリー❹』せせらぎ出版、p.216-219)という作品を書いた。

2004年、わたくしは、詩(創作叙事詩)「川下にいる者」を書く。『老子の思想—タオ・新しい思惟への道—』(講談社学術文庫、1987年初版/1996年17刷)の8章「水のようなもの」に支えられ、創作した。
この詩が、のちに教職大学院における組織マネジメントの研究-実践の中で「水の思想・川の組織論」という次世代型組織マネジメント理論(2012年)に成るのである。

2004年、わたくしは、学校の管理運営と教育実践―「副校長」の仕事を中心に―(『ホリスティックな教育改革の実践と構造に関する総合的研究(最終報告)』平成 13-15 年度日本学術振興科学研究費基盤研究 B(2)研究課題番号 13410091(国立教育政策研究所統括研究官・菊地栄治代表)『ホリスティックな教育改革の実践と構造に関する総合的研究(最終報告)』2004 年、p.234-246)という作品を書いた。

2005年、わたくしは、東京学芸大学附属大泉中学校「帰国子女教育」の歴史 1965-2005 : 文化的社会的多様性 Diversityの教育へ(『東京学芸大学附属大泉中学校研究集録』No.46、p.15-39)という作品を書いた。この作品(p.28-30)の中で、【ホリスティックな教育を支える哲学とその意義】について触れた。
これは、1965年、国公立学校としては全国に先駆けて「帰国子女教育学級」(定員15名)を設置した東京学芸大学附属大泉中学校の「帰国子女教育」の歴史を明らかにし、来る「国際中等教育学校」の創設(2007年)に向かう歴史的現在を明らかにした。

2005年4月、副校長だったわたくしは、本学の了承を得て勤務日ではない土曜日の午前中2コマ、中央大学教職課程「社会科教育の研究」の兼任講師を始める。
2006年度の「社会科教育の研究」の講義資料がサイト上にあるが、2006年12月16日に「ホリスティックHolisticな社会科教育とは何か―現代的な課題に迫る理論と方法―」という講義をしていたことが明らかになる。また、当時の履修生(現在、ある大学の専任講師)に会うと社会科教育の講義の中でホリスティック教育論の講義があったことをしばしば想起されるという。

2007年4月から「大学・大学院(教職大学院)というフィールド」で担当する様々な科目に通底する理論や哲学をもって架橋・往還させつつ、「越境する教育学」の研究-実践をすることになる。

以上、上巻。


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