やさしくなんかない

娘(2歳)が、晩御飯の途中でお腹いっぱいになったらしく、「ぱぱに、あげるのー」といいながら自分のお茶碗に残ったご飯を僕のお茶碗にスプーンでえっさほいさと移している。

娘茶碗と父茶碗が遠くて、道半ばでご飯がスプーンからこぼれがちだったので、僕はお茶碗を手にとって娘茶碗のそばに置く。

妻はその光景を見て、「父はやさしいねえ。私だったら『入れるならざーって入れればいいじゃん!』って自分でやっちゃうなあ」と。

違和感を覚え、「これはやさしさじゃなくて、自分の感覚が正しいということを常に疑うっていう姿勢なだけよ」と応えた。

※注釈すると、ここでの「自分の感覚」とは「スプーンで移すことによる溢れるリスクとかかる時間は、茶碗を貰い受けて自分でざーっとやることで軽減できる」ことと、「その方が良い」という判断のことである。

すると妻は、「結局相手の気持ちを尊重するっていうことになるんだから、それはやさしいってことだよ」と返した。

なんとなく座りが悪い感覚を味わいながらもうまく整理できなかった僕は「そう思うならそうなのかもしれん」となんとも歯切れの悪い返答をしてしまった。

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多分僕は、自分がやさしいと思われることに抵抗がある。

やさしいっていうのは、たぶん自己犠牲と近い概念だ。

僕は嫌われたくはないけど、自分の言動は全て利己的なものだという認識でいて欲しい。

もしやさしい人だと思われてしまったら、それを裏切ったときにがっかりさせてしまう。

ずっとやさしくいなきゃいけなくなる。

でもずっとその人のことを気にすることはできないから、うっかり嫌なことをしてしまう可能性は否定できない。だからずっとやさしい人でいることはできない。

期待は重い。

だから、僕は利己的な人だと思われたい。

そもそも利己的な人だと思われてたら、ちょっとやそっとで失望されることもなさそうだから。


さらに言えば、僕は全ての人に利己的でいて欲しい。

もし誰かが僕のために何かしてくれてるんだったら、僕はその意図を汲んで自分の行動を考えなきゃいけなくなる。

それは大変だ。その人が何を期待しているかを捉えなきゃいけないし、どうすればその人が僕がそれに応えられたと思うのかを考えなきゃいけない。

もしその人が利己的な動機で僕のため(に見えるような)の行動をしているんだったら、それが僕に伝わらなかった責任もその人が持ってくれる。

なんてやさしい世界なんだろうと思う。


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