掬うと救うとすくうと書くのとはなすの
食事の時。
もうすぐ食事を終えるところの娘に「ほらそれすくって食べちゃいな。やってあげようか?」と話しかける妻の声をきいてふと、
スプーンで「掬う」ことと、「救う」ことは似ているな、と思った。
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こういう話は元来好きなのだ。
母が日本語教師だったので、幼少期にはよく「ちょっとこれ新鮮な頭で聞いてみて?『象が鼻は長い』(※)って何かおかしい?何がおかしい?」と、留学生からの質問に困って横流ししてくる母へ、幼い頭で回答をひねり出して解説するという訓練(?)を受けていた。
日本語が嫌いにならなくて本当に良かった。
※公開当初は『象は鼻が長い』になってた。普通じゃん。言い訳させてもらうと、『象は鼻が長い』っていう誰がどう見ても普通な一文にすら一周回って違和感を持ってしまうくらい、頭の混乱する作業だったということである。
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「たぶん仏教の概念で、迷える人を助け出す所作はきっと水を掬い取るときのそれと同じで、だからきっとその行為の動作に『掬い取る』方の掬うがあてられて、意味の方に『助ける』方の救うがあてられたってだけで、元は分かれてなかったんじゃいかなあ。『掬い取る』方の掬うと『助ける』方の救うは。」
とかいつもの調子で、何の確証もない考察をだらだらと話していたように思う。(こういうのを一緒に面白がってくれる妻で助かっている。)
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と、それを話していてまたふと思考が飛んだ。
声に出すと「掬う」と「救う」の違いはわからないから、「『掬い取る』方の掬うと『助ける』方の救う」みたいに冗長な言い方をいちいちしないといけないけど、書き言葉だと漢字で区別できて一瞬だな。と。
あーつまり書き言葉に親しむ以前の日本人はきっとこの話し言葉の持つ曖昧さを知ってか知らずか、それを大きな意味のままで理解したり面白がったり利用したり、もしかしたら頻繁に生まれていたコミュニケーションのうまくいかなさも前提として生活や世間や社会を営んでいたのかもしれないな。
近代化によって失われた(のかもしれない)感覚。
今後も勝手に発掘していきたい。
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この話を書こうと思って「救う 掬う」で検索したらわかりやすく解説してくれている文章がすぐ見つかった。
それだけならまあ当然な話なんだけど、同じ記事の中でこちらも「かく」と「はなす」にも言及してあったのには不思議なリンクを感じて面白かった。
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