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一葉記念館(東京都台東区・三ノ輪駅)

五千円札で有名な樋口一葉。来年には五千円札の肖像画は津田梅子に変わってしまう。切り替わる前にはまず拝見しておかなくては、と思い来訪。ちなみに台東区内のいくつかの施設は相互割引を行なっており、この一葉記念館と、入谷の書道博物館、日暮里の朝倉彫塑館、上野の下町風俗資料館や旧奏楽堂が該当する。

館内は3階建てとなっており、階段で2階へ上ると展示室が2つ、3階にもう1つの展示室がある。トイレは地下にある。ウォシュレット式。

細長くてちょっと好きな階段

2階の展示室では樋口一葉の生涯についてを紹介している。一葉というのはペンネームで本名は奈津、夏子とも名乗った。生まれたのは明治維新から間もない明治5年。幕府役人から明治政府の官僚になった父親の元で学業も優秀だったが、当時は女性が学業をするという風潮になかったことから母親の勧めで退学したという。退学後も勉学を学ぶ姿勢を持った一葉のために和歌を習わせたり歌塾に入門させたりしたことで、文学の才能が開花している。この時に知り合った伊東夏子や田中みの子とは生涯を通しての親友となった。

奈津と夏子は仲良し

家は決して裕福な暮らしではなく、兄弟も多かったため(次男は折り合い悪く勘当され、のちに工芸家となって大成した)、父や兄が死去したこともあり生活には困窮していた。塾の先輩だった田辺花圃が小説で印税を得たのを知り、一葉も稼ぐために小説家を志すようになる。

勘当された兄の工芸品もある

小説家の半井桃水に師事して同人誌で小説を披露したが話題にならず、その桃水とも男女の醜聞の噂がたったのもあり絶交して独学し、田辺花圃の紹介によって雑誌で再スタートを切ってようやく印税を受け取るデビューをすることができた。24年というその短い生涯の中で実際に小説家として活動したのは4年ほど。困窮した生活の中で経験したことが『たけくらべ』をはじめとした多くの作品で活かされている。『たけくらべ』は森鴎外、幸田露伴、斎藤緑雨に絶賛されて注目を浴びることになったが、残念ながらそこから程なくして彼女は結核によって命を落とした。

『たけくらべ』いいよね、うん、あれはいい、みたいな話を3人の文豪がしていたらしい

一葉は作品によってペンネームを使い分けており、「小説=一葉」「和歌=夏子」として使い分けしていたという(小説では例外として「春日野しか子」「浅香のぬま子」という変わったペンネームも発見されている)。ちなみに展示されていた雑誌「閨秀小説」では2つの小説があってそれぞれ「一葉」「なつ子」のペンネームが用いられていたが、これはどうも出版社の意図によるらしい(学芸員の方から教えていただきました。感謝)。出版社と作家との力関係が窺える。

企画展は彼女の真筆を扱ったもので、小説や短歌といったものから書簡に至るまで、彼女の筆による残っているものを紹介している。中でも師匠だった半井桃水への手紙が悲痛さを感じさせる。絶交した後しばらく経って桃水が結婚することを知った一葉の悲痛とも言える想いが伝わってくるようで、外部の人間が想像するだけしかできない男女の醜聞とはまた違った二人の関係が窺える。

あざとさもちょっぴり兼ね備える奈津ちゃん

3階の展示室では死に際の様子とその死後に受けた評価について。『たけくらべ』の評価を経て『にごりえ』『十三夜』などの作品を発表してこれから、という時には既に彼女は病に冒され死へのカウントダウンが始まっていた。わずか7ヶ月後に結核で死去。「わたしは何になっていましょう、石にでもなっていましょうか」という言葉も印象的。その作品は後に舞台化や映像化され、日本初の女流作家としての地位を不動のものとしている。

夭折したことで神話になったのかもしれない


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