カウンセリングと障害者 支援かそれとも妨害か

本日もイギリスの障害学という本の中から、
第35章 カウンセリングと障害者 支援かそれとも妨害かを読んでの感想を書いておく。

この章は、Lancaster University Depertment of Applied Social Scienceに所属するDonla Reeveが執筆している。

まず、最初に驚いたのはカウンセラーという専門家に対する批判だ。
喪失理論などの理論的枠組みを用いてカウンセラーは仕事をすることから、例えば、障害者になったのにうつ病になっていないクライアントに対して、
「あなたはまずうつ状態になる必要がある」
とアドバイスをするという記述だ。

え?そうなの?
理論的枠組みはあくまでも枠組みであり、多くの人がそのようなプロセスを経て障害受容をしていくというあくまでも理論だと捉えていた私にはこのような記述にとても驚いた。

ピアジェが提唱した発達理論も非常によくできているが、多くの人に当てはまるものでそれは100%の人に当てはまるものではない。順序が逆になったり、ときには1段階、2段階スキップして発達をするタイプの子どももいる。だから、理論的枠組みはあくまでも目安であり、これに人間を当てはめようとする行為は無意味だと言える。

喪失理論、障害受容論等、私自身が障害者になった経験からもこれらを読んで私もそうだった!と思うところもあれば、ほとんど当てはまらないと感じるものもある。十人十色、それぞれのプロセスがあってそれでいいと思うし、その大前提のもとでカウンセラーは仕事をしているのだと思っていたからこの記述に驚いたのだと思う。

さて、話は変わってなぜこのようなカウンセリングが主流になっていくのかを考えたときに、そこに当事者カウンセラーがいないことを指摘している。カウンセラーになるまでの学びのプロセスに障害者が参加できない、アクセスできない状態にあることが重大な問題とされていた。
確かにこの点については同意できる。というのも、日本でもカウンセラーを目指す障害者は数多く存在する。しかし、正規の学習機会では視覚的情報を活用できないとそれ自体がカウンセラーとしての資質・能力の欠如と判断されてしまうこともあるようだ。だから、彼らは独自に集まりを作り、自称ピア・カウンセラー等といった当事者もいる。私はこの状況に警鐘を鳴らしたい。というのも、やはり、カウンセリングという専門領域を独学で学び、独自の理論で推進することのリスクを考えると、障害者が正規の学習機会に参画できるよう合理的配慮が提供される形を整えるべきではないかと思うからだ。

障害者が専門職に就こうとするとき、社会の「障害があるからできない」という先入観が大きな障壁となることがある。私はこういった1つひとつの問題を解決していき、前例をどんどん作っていくこと、障害者が一般の人のコミュニティの中で学び、働くことができるようにしていくこと、そういったことが偏ったカウンセリング観の改善には求められていると感じた。

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