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角田光代『くまちゃん』を読んで

誰かと出会い、惹かれ合い、お互いのことをちょっとずつ知っていって、時には喧嘩をして仲直りして、「これが幸せかぁ」なんて実感したりもして。

そんな、時間をかけて作ってきた二人の大切な関係性も、きっかけがあったり(ときには特にこれといったきっかけがなかったりも)して突然不穏になるわけで。

「このままずっと一緒にいられる相手ではない」とどちらかが(または双方が)悟ってしまったとき、別れが訪れる。

別れたばかりのときは身を引き裂かれんばかりに痛くて、枯れるまで泣いて、「もう恋なんてしない」と、あの名曲の歌詞が自然に口から飛び出してしまうほどに打ちのめされて。

それでもまた懲りずに恋をするんですよね。誰かと関係性を築くんですよね。本当に人間って馬鹿でかわいい生き物ですよね。

馬鹿だから、救いようがないから、愛おしいのかもしれない

私自身どちらかというと恋人からふられることのほうが多い人生だったので、角田光代さんが書いた”ふられ”小説なんて読むしかないじゃないか! と鼻息荒く手に取りました。

あらすじ

風変わりなくまの絵柄の服に身を包む、芸術家気取りの英之。人生最大級の偶然に賭け、憧れのバンドマンに接近したゆりえ。舞台女優の夢を捨て、有望画家との結婚を狙う希麻子。ぱっとしない毎日が一変しそうな期待に、彼らはさっそく、身近な恋を整理しはじめるが……、ふる/ふられる、でつながる男女の輪に、学生以上・社会人未満の揺れる心を映した共感度抜群の「ふられ」小説。

本当に同一人物なの?

一緒にいる相手によってまるで別人かのように変われてしまうのが、これまた、人間の愛おしいところです。

追われる恋愛をしているときは自由奔放で余裕しゃくしゃく、ありのままの自分でいられるのに、一転、追う恋愛をするようになると相手が求めている(であろうと勝手に思っている)自分で在ろうと取り繕ったり、そのせいでじわじわ首が絞まるような息苦しさを感じたり。

『くまちゃん』は連作短編になっていて、前話で誰かをふった人が、次の話では誰かにふられていきます。

さっきの作品と本当に同一人物なの?

そう思わされるほどに、一緒にいる相手によってその人物の思考や行動が違っていて驚きます。


「彼(彼女)と一緒にいるときの自分が好き」

「彼(彼女)のこととても好きなのに、そばにいるとなぜか息が詰まる」

そういった感覚は、恋愛の場面において幾度となく訪れます。

お互いが同じくらい相手のことを大切に想っていて、信頼し合えていて、束縛もなく、自分らしさを保ちながら続けられる恋愛であれば前者のような感想になるでしょうし、

一方で相手への憧れの感情が強すぎたり、「いつか彼(彼女)に捨てられてしまうのではないか」などと不安な気持ちが勝ってしまったり、歪んだ形で上下関係が形成されていたりすると、後者のような感情を抱いたまま関係性を継続することになります。


ある女性が自分の彼氏について話しています。

「あいつ私にぞっこんで、何回ふっても諦めずに告白してきたからしょうがなく付き合い始めたの」

「わがままも言いたい放題。私の言うこと全部聞くよ」

「顔はまぁ、普通なんだけど、服装がダサいから私があれこれ口出しして自分好みに変えちゃった」

「自分に見合う男に”育てた”って感じ」

「やりたい放題できるからそれはそれでいいかなと思ってる。なにより一緒にいてすごい楽なんだよね」


数年後、同じ女性が言います。

「今の彼、出会った瞬間に私の方から一目惚れしちゃって、一生懸命アプローチしてなんとかつき合ったの」

「恋愛経験も豊富だからなんでもスマートにエスコートしてくれるし、デートで予約してくれるお店もお洒落なんだよね」

「彼がこういう服装が好きっていうから最近ワンピースとか着るようになったんだけど、どう? かわいいでしょ」

「これが私が求めていた恋愛なんだ……って日々うっとりする」


それを聞いていた彼女の友人は言います。

「もともとラフなファッションが好きだったあんたが、好きな男に合わせてお上品な清楚系コーデに変わっちゃうんだからびっくりだよね」

「ていうか、ちょっと痩せた? 大丈夫?」

「こんなこと言っちゃあれかもしれないけどさ……」

「数年前に服がダサい男と付き合っていたときの方が、あんたらしかったし、自然だったし、幸せそうだったよ。少なくともずっと一緒にいる私からはそう見える」


本当にこれが同一人物なの? と本人も周りも思うほどに、一緒にいる相手によって人は変わってしまうものなのです。恋に焦がれる力というのは恐ろしいものです。


ふるほうだってつらい

まだ二十歳前後だったころ、私はお付き合いしていた恋人からふられてしまった経験しかありませんでした。

ふられたときの絶望感たるや。

まさにこの世の終わり。

目の前が真っ暗になるとはこのこと。

自分という人間の存在自体を否定されたような気持ちになり、これまで過ごした日々はなんだったの? という気持ちにもなり、「もう恋なんてしない」と歌い出したい気持ちにもなり、竹内まりやの『元気を出して』をエンドレス再生しながら涙を流すしかない。

絶対、ふられる側のほうがつらいにきまっている。

当時の私はそう思っていました。


20代前半のあるとき、事実上恋人関係だった相手に自分から別れを告げなければならないタイミングが、ついに私にも訪れました。

他に好きな人ができたのです。

別に浮気していたわけではなくて、私が一方的に一目惚れしてしまったのです。その人が自分を好きになってくれるかどうか確証もまったくありませんでした。

でも、出会った瞬間から強烈に好きだと思う相手を見つけてしまったのです。

一般的な人と比べると少々倫理観の欠落した私の脳みそをフル回転させて散々考え、誰かと恋人関係を続けながらその彼に近付くのはあまりにも不誠実だと結論を出し、事実上の恋人に別れを告げる決意をしました。

決意してからはつらい日々です。

いつ言い出そう? どんなふうに伝えよう? なるべく傷つけたくないけれど、それでもしっかり相手が諦めきれるように伝えなければ。

私は決めました。

相手から何を言われても言い訳しない。ひたすら「ごめんね」と謝る。そして、優しい言葉をかけない。


「君に出会えてよかった」

「君と過ごした時間を、私はこれから先の人生でもずっと忘れない」

「君がいてくれたからいまの私がいる」

「私は君にも心から幸せになってほしいと思っている」

頭の中でありきたりなクソ青春映画みたいな科白をごちゃごちゃさせながら、私はこれまで散々自分を傷つけてきた”ふる側”の人間を、今日、いま、やるのだ、と、

”ふられる側”がどれだけつらいか、お前が一番よく分かっているだろう、と、涙を必死にこらえて、

呆れるような憎むようななじるような視線と、「浮気者」「俺がいながら別の男に目が行くなんて」「信じていたのに」「これからも一緒にいられると思っていたのに」「俺はまだこんなに好きなのに」という糾弾に耐えて、

「ごめんなさい、他に好きな人ができました。私と別れてください」

とだけ、俯きながら淡々と繰り返しました。


私はそのとき、彼が泣くのを初めて目にして、なんてことをしてしまったんだろう、と愕然としました。

数年一緒にいたけれど、知らなかった。

この人はこんな風に泣いたりするんだ。


「もう二度と会わないから」

彼が吐き捨てるようにそう言って、私は小さく頷いて、彼をその場に残して自転車のペダルを漕ぎ出した。

私はぼろぼろ泣いた。

ぐんぐん進む自転車、だめだだめだ、絶対に振り返っちゃだめだ。

「信じていたのに」「まだ大好きなのに」「もう二度と会わないから」

彼の言葉が頭の中にがんがん響いて離れなかった。


なんてことを、私はなんてことを……


これまでふられたことしかなかった私は、”ふる側”のつらさなんて認めたくもなかったのだけれど、認めざるを得ない。

ふるほうだってつらいんだ……


関係性がある程度の段階まで進んでしまったら、ふるほうもふられるほうも、どちらも同じくらいしんどいのかもしれない。

なんとなく心の奥底でお互いがこの先のお互いの人生に必要ない存在なのだろうなとぼんやり思っていて、それでもぬるい安寧に包まれてぼんやり別れられずにいて、でもやっぱりいつかはきっと別れるのだろうと予感していて。

だからきっと、どちらが言い出したか、というだけの問題であって、どちらの方がつらい、という話ではないのだろうな、というのが、私の現時点での結論なのであります。


極上の”ふられ”小説、恋の終わりに涙を流したことがあるすべてのあなたに贈りたいです。

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