ハンドメイドにおける、自分の気持ちを”ライト”に書くことについて思うこと
おはようございます。
贈りたいアクセサリーの napuniwa です。
満月の日に勢いで始めた、この場所。
5回目の更新。
「やっぱり私、書くことが好き」ということをまたまた再認識しています。
初めましてのご挨拶は、さくっと書きましたが、
その後3回は、割と濃ゆいお話をしたような気がしています。
これ、
とか。
これ、
とか。
コンセプトに至っては、つまるところ「いのち」と言ってますからね(´•ᴗ•;ก)
こういうお話は、わたしはnoteを始めるまで「重い」から、しないようにしてきました。
作家のそういう想いを知ったら、まことしやかに囁かれてた昔の「手編みのマフラー」じゃんと⋯
そしてね。
わたしは、実際に、「重い話はライトにしよう」という方のところで学びをしておりました。
学んでいた主軸は「書き方」ではないのですが、複合的にそういったことも学んでおりました。
でも、Instagramの世界で「想い」や「人となり」を「ライトに書く」って、すごく難しいんですよね。
積み重ねていけば自ずと見えてくる「人となり」も、私の場合、「ライト」にはなりにくい⋯
「ライトに書く」
それでいて、「自分を知っていただく」
ここに、絶対的な矛盾が生まれてくるのです。
心の内には深い深い「想い」がある。
それは変えられない。
というか、変わったらnapuniwaでなくなってしまう。
そうやって悩んでいると、
「無理してない?」と気づいてくださる方もいて。
やっぱり、分かっちゃうんですよね。隠せない。
そんな時、
それまでの学びの場とは全然違うタイプの方に出会いました。
人を想い、感極まると涙を流しちゃうような、もしかしたら私以上に感受性の豊かな、熱い想いを抱えた方でした。
その方とお話をしていく中で、思いもよらぬ言葉をかけていだきました。
「重い、は、想い」ですよ。と。
重い = 想い
こう仰っていただき、
「あぁ、わたし、それでいいんだぁ⋯」と思いました。
ライトに書くのが「正しい」わけでも、
重く書くのが「正しい」わけでもなく、
それはどちらでもいい。
私が、napuniwaの「想い」を書くことに、「正解」も「間違い」もない。
そう思うことが出来たとき、
「想いを想いとしてかける場所を作りたい」と思い、このnoteをはじめました。
Instagramに書くには長いことも、
書ききれないことも、
ここではブログ・noteとして、私の想いを綴っていける。
そして、もうひとつ、思ったのです。
「重い」のが嫌な人は嫌だし、
「重い」のが平気な人は平気だし、
「想い」を「見たい」、人もいるわけで。
Instagramを含め、発信の世界には、どちらの人もいて、結局見る人の好み、好きずきなんだなと、最初の学びの場と、その後に出会った方の違いから気付くことができました。
それをこちらがどうこうできる話でもないし、どうこうするのもおかしな話で、
あ、どっちでもいいんだな⋯と思ったら、かなり楽になりました。
(だってnote始めてるしね🤭)
自分の世界観を伝え。
自分の想いを伝える。
そしてそれを読んでも、「手に取ってくださる方」がいらっしゃること。その事実。
誰からもそっぽ向かれるなら「そうじゃない」のかもしれないけれど、 少なくとも「お手に取ってくださる方」がいる今、
その事実を事実として受け取って、napuniwaは、「ある」の方に目を向けていたいなと思います。
結論。
ライトでも、ライトじゃなくても、
読む人は読むし、読まない人は読まない。
なんじゃないかなーと、感じている最近です。