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言葉で残す〜note再開〜

 前任校で後ろの席に座っていた定年間近の先生が、何の気なしに呟いた言葉。「何歳になっても、教員にとって3月って特別なもんだなあ。心が忙しいなあ。」それから4回目の3月を迎えているが、毎年3月になると、この言葉を思い出す。

 学校で大きな存在だった3年生の卒業。次に学校を担っていく新入生との出会い、高校入試。教職員の異動。担任かそうでないか、自分と親交の深い先生が異動なのかどうか、新入生に関わる立場かどうか、色々な立場で毎年3月を迎えるので、この「教員にとって特別な3月」への熱量には、年によって差があるけれど、やっぱり3月は心が落ち着かない。この3月、私は卒業担任であり、異動対象者。送り出す立場、そして、送られる立場。なかなかに心がざわつく3月である。

 私は節目に手紙を書く。昔から。教員をしているけれど、瞬発的に話すのは苦手である。「あれも言えばよかった」「言葉のチョイスを間違えた」と思うことが結構ある。小学校の通信簿ではいつも、どの科目でも、「発表することができる」に課題があった。担任の先生にも、「わかっているんだから、発表してごらん」と何度も言われるのに、手をあげて発言するということができなかった。今も、「ちゃんと話す」という場があらかじめわかっているときは、簡単な原稿を書いて整理したり、ぶつぶつ一人リハーサルしていたりする。経験でカバーできるようになったこともあるけれど、やはり今でも口で伝えるということが得意ではないなという自覚があり、本当に伝えたい言葉があるとき、私は手紙を書いてきた。 

 この3月、私はたくさん手紙を書いた。生徒へ、お世話になった同僚・恩師へ。そして、たくさんの手紙やメッセージをもらった。手紙を書くと、「ああ、私はそんなふうに感じていたのか」と想いが整理される。そして、「この子(この人)には、この言葉で伝わるかな」と相手のことをたくさん考える。手紙に載せる想いは、書いている「その時」の気持ちなので、常に変化していくし、手紙をあげてしまったら、時間と共に何を書いたかは忘れてしまう。でも、その瞬間抱いている想いは事実。精一杯の気持ちを載せる。もらった手紙やメッセージも、書いてくれた人の「その時」の気持ちが詰まっている。「その時」私のことを思い出し、頭・心・手を尽くして書いてくれたものである。いつでも、何度でも読むことができる。気づき・パワーとなる。

 それから、私は担任という役職にあたっているときは、週に一回手書きで学級通信を書いてきた。手書きにこだわるのは、初任時代からお世話になっている先生の真似事なのだけど、いつも、「今週は何を書こうかな」「今、彼らに必要な言葉はなんだ?」と考えて過ごし、木曜日の夜に書いて、金曜日に配る。そんな毎週だった。ある意味、自己満足の所業だけど、このルーティンは私の整理の時間であり、表現の一つであり、記録だった。

 なんでこんなこと書いているか。おそらく4月から私は「言葉として残す」という機会がきっと、激減してしまう。「noteを再開する!(再開と呼べるほど、そもそもやってないけど)」という今の意気込みを残しておくためである。短期集中型の私。「コツコツ続ける」は割と苦手。もちろん人間だし、ましてや教員なので、日々アウトプットはするのだけど、言葉を選んで書いたり、言葉を吟味したり、何かについて考えたことを残すという作業の場は無くなってしまう。新しい環境に飛び込むので、生徒とも同僚とも、まずはきっと人間関係づくりでいっぱいで、通信を書くことも手紙を書くこともない、ドダバタの新年度だろう。

 ということで、思い立った時に少しでも何か書いていけたらいいなと、改めて思う今である。次回は何について、私は書きたくなるのかな。行き当たりばったり、自己満足のために。さて、そろそろ重い腰と、頭を起こし、片付けの続きをしよう。


 


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