見出し画像

一歩前進

うまく今の気持ち、心境を表すことは、きっとできないと思う。それでも、残しておこう、まずは言葉として出しておこう、そう思うので書いてみる。タイトルは私の学級通信のタイトルでもあった「一歩前進」。子どもたちにむけていたことが、今は自分に必要な言葉な気がする。

私の大好きな歌の歌詞とも、100%共鳴しているわけじゃないけど、近いな、こう思いたいなと思って、貼り付けておく。

日々を積み重ねるということ

 昨日、たくさんの人に見送られ、想いを伝えてもらい、私は4年間生きた土地を離れた。しばらく、「この距離ならまだ引き返せるな」と、泣きながら、あり得ないことを考えながら、車を走らせた。4年前にはこんなに寂しさ、離れ難さ、土地と人への愛を感じることになるなんて、思ってもなかった。前任校を離れる時も、人生マックスで幸せと寂しさを感じていたけれど、それを超えた。

 特別なことをしたわけじゃない。思い出を作ろうとしていたわけじゃないし、別れる日のことを想像して過ごしていたわけじゃない。毎日が、ただただ必死だった。だから、「ここで過ごした4年間」というより、「ここで生きた4年間」という表現の方がしっくりくる。「私の人生の1ページ」なんて表現があるけど、私の人生の本は、この4年、ものすごいページ数を重ねたと思う。1日1ページなんかじゃ足りなくて、はみ出し、滲み、破けながら、ボロッボロの分厚い本になったと思う。気づいたら、本当に離れ難い人がたくさんできて、当たり前の日常がなくなることが怖くて、「また明日ね」を言えないことが悲しくて、やっと、自分の積み重ねた日々の厚みを感じた。1ページずつを読み込めば、悔しくて寝れなかった日もあったし、許せなくて罵った日もあれば、泣くほど嬉しい日もあったし、初めての経験をたくさんしたし、恋もしたし、別れもあったし。どちらかといえば、「きつい」ことが多い4年間ではあった。常に何かに悩んでいたし、思い通りになんて行かなかった。けれど、とにかく出会いの連続だった。この土地で出会った人。この土地でしか得られない経験。そしてその中で生きていると、知らない自分にたくさん出会った。「出会い」で私は変わっていった。今日、3月31日まで、私はこの4年過ごした場所に所属しているが、ここで過ごした4年を愛おしく思うし、全て込みで、「私は今、幸せ」と言い切れる。

誰かの心に残る

 人の心に残るって、簡単じゃないし、意識してどうにかなることじゃない。相手の本当の気持ちなんてわからない。けれど、こんなにも誰かの心に残っているんだなと感じられる「教員」という仕事を誇らしく、そして、その仕事を辞めずにこれたのは、私を応援してくれた人のおかげだと思うと、感謝でいっぱいである。

 深く関わった子どもたちからの手紙。文を書くのが得意な子どもたちではない。けれど、その言葉一つ一つに想いが滲み出ていて、なかなか読み進めることができなかった。確実に、この子たちの心には、私がいるなと思った。私の心にもあの子たちがいるように。「大きな存在」とか「この人がいたから」とか「特別」とか、近い表現はなんとなくあるけれど、うまく言葉にできない。あの子たちの想い、最後の様子全てが「離れ難さ」「寂しさ」「行かないで」と真っ直ぐに私突き刺さった。幸せすぎることである。こんなこと、なかなかない。もちろん私が学生時代にそんな経験はなかった。

 この経験で、私は「教員」しかも、「高校の教員」としてどんなふうに子供達と向き合うか、存在としていたいか、接したいかを考えさせられている。この子たちもまだまだ先へ進み、大人になっていく。私以上に色々な人・経験に出会っていく。その中で、私との出会いや思い出、寂しさは薄れていく。もちろん、忘れたって、かまわない。でも、今のあの子たちの心に私がいて、信頼関係を築くことができて、大きな別れを経て、その先へ進むことが、人生の中でページを刻んだことは確かだし、人生に少しでもプラスになっているのだとしたら、嬉しいなと思う。高校生にとって、家族以外でこんなに関わる大人は、相当恵まれていない限りは、教員くらいだと思う。どんな関係性を持っていけるかは、その子たち次第だし、教員も一人の人間なので、相性にも環境にも左右されるのだけど、私は「高校生」という人生でたった3年間の、貴重な時間に、何かしら心に残るような働きかけや関わりを授けられる教員でありたいなと思った。

バトン

 生徒との別れもそうだが、仲の良かった人たち、同僚との別れも、今の私の心を占めている。私は今回、送り出してもらう側だった。去年までは送り出す側だった。だから、どちらの気持ちもわかる。経験上、寂しさはどっちも苦しい。堪え難い。けれど、その持続する期間については送り出す側、つまり、残る側の方が長いと思う。場所は変わらず、人がいなくなるので、場所から思い出されることが多いからだ。慣れるまでは「あ、もういないんだった」なんてことも起こるし、「ここでこんなことしたな」、「あんなことあったよな」と気づいてしまう瞬間がある。

 私を送り出してくれたある人の気持ちを、その人との関係だからこそ知ることができた。その人の発信で、驚くところもあったし(そんなふうにに思ってくれてたのか・・・とか)、送り出す側の気持ちとして懐かしさを感じるようなところもあった。ああ、バトンを渡したんだなと思った。こうやって季節は巡っていくのだなと。その人は、仕事面だけで見れば、私よりも俄然若く、経験もまだまだこれからの後輩である。少し先輩ヅラして書くのなら(仕事面でしか先輩ヅラできないんだけど。そしてそのうち、超えていくとも思うけど。でも超えられないように私も精進するけど。)、これからが本当に楽しみな、素敵な人(仕事面以外も信頼感抜群で素敵だけど、ここでは割愛)である。その人からは色々な思いを汲み取ったつもりだけど、その中で、寂しい中でも私への応援や励ましの気持ちを強く感じた。出会って良かったな、関われて良かったなと思う。何かしてあげられたとは思ってないし、もっと若い人へしてあげられたり、教えてあげられることがあっただろうというのは、私の反省なのだけど、それでも、その人なりに感じてくれてたものがあったのは、本当に嬉しかった。きっとその人は、たまに私を思い出しながら、日々生徒に向き合っていくと思う。学校を支えていくと思う。「仕事の引き継ぎ」だけじゃなくて、「気持ちの引き継ぎ」ができる相手に出会え、バトンを渡せたなと思う。

 明日からの場所でも、様ざまな人が生き、バトンが託された人たちがいる。ドラマがあったはず。バトンを渡した私の両手は今、空いている。私は誰からどんなバトンをもらうのかな。小さいバトンか、重たいバトンか、私次第なところもある。どんな出会いが待っているのかな。そうやって、今の寂しい気持ちを切り替えるためにも、考えている。「自分を探す終わりなき旅」を続けるとともに、そんな日々を共有していきたいな。


追伸

書き切れたようで、うまく表せいてないような。でも、これが今の精一杯。

たくさんのありがとうと、これからもよろしく。

この記事が参加している募集

仕事について話そう

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?