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【読書感想文】『わたしの宝石』朱川湊人

朱川作品は大学2年の冬に『都市伝説セピア』で世界観が好きになり、『鉄柱』という短編を読んで衝撃を受け、それから全ての作品を読んできました。

大学4年も終わりの今になると朱川作品にちょっとしたマンネリのようなものも感じていて、購入したのは半分義務感もあったと思います。卒論が終わった直後で論文の読みすぎだったためか言葉が俗っぽくて慣れるのに時間がかかりました。


さて、『わたしの宝石』は短編が6つで、全て「愛とは何か」という問いに架空の誰かの人生を借りて曖昧ではありますが形を作っていると感じました。

いつものキャラではありませんが、(と自分で思っている)わたしもここ2年ほどその問いを突きつけられつつ、失敗しながら仮説を出してきました。それでも全然はっきりとしたこたえは出ておりません。若いですね。



「さみしさには、癒す方法も、晴らす方法もありません。たとえどの方角に目を向けようとも、それは必ず自分のそばにいて、考え方を変えたぐらいで消すことはできないのです」

作中にこんな言葉たちがありました。これはちょっと悲観的すぎかなとも思いますが、確かに人はさみしさを埋めたいと願うあまり、誰かに愛を与えてもらいたくて迷走するのではないかと思う時があります。自分の経験からも、他人を見ていても思います。

しかし人間はたびたび愛を求めた故に傷つき苦しみます。「さみしさを埋めるため」に行動するからでしょうか。朱川論からいうとさみしさは消すことができないらしいので、それだと完璧に傷つくと思います。

じゃあどんな動機で愛を求めたら傷つかないのでしょうか。いや、そもそも傷ついていいのかもしれません。死んだら元も子もありませんが、ある程度の痛みを認知しながら自分を知っていくのは一種の冒険です。冒険がなければ平穏な生活を心から楽しむこともできません。

ただ、さみしさを根本に行動にしすぎると、さみしさに酔うのではないかと思います。つまり無意識に自分はさみしい人間なんだと自分だけを肯定してしまうことによって、周りが見えなくなるのではないかと思うのです。ひどければそのままさみしさは意地となって、目の前にある愛にすら手を伸ばさなくなってしまうのではないかとも思います。たださみしさが完全なる悪だと言っているわけではありません。ある程度の楽しい酔いは必要ですが、酔っ払いはひどくなると何でもかんでも傷つけて、そのことにすら気が付かない時があるというだけです。

わたしは、愛を求めるんだったらまず愛を持っている人間になりたいです。愛について知っていなければ、愛をもらったときに気がつけないでしょう。

ただ、冒頭で言ったように、わたしは今でも愛というものは得体が知れないままです。『わたしの宝石』でさえはっきりと形容していないし、逆に愛というものをしっかり説明しているのを見ると胡散くさくて仕方ありません。

多分、最強の愛は言葉で表現するよりも、言葉を含めて背中で語るべきものなのかもしれません。

作中の言葉を借りつついうと、どうやて「己の誠を貫くか」ということにあるんだなと思います。




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