自閉症傾向とセルフエデュケーション - わたしと外国語

高校時代に学業を放棄していたので、その後の進路を決める段になって、苦労したことは言うまでもありません。惰性で進学校に通っていたので、大学に行かないという選択をする人は少数派でした。ところが、私は大学に行く必要を感じませんでした。

その代わり、東京にあるアカデミー・フランセーズ(老舗の語学学校)に行くつもりでした。しかし、私はひとつだけ試しに受けてみた大学に合格してしまいました。周囲の説得に従い、大学に通うことにしました。この辺りにも、私の惰性で物事を決める感じが現れています。常に未来の見通しがないのです。

大学時代は、有って無いようなものでした。実際にあまり記憶もありません。顔と名前が一致する知り合いが2人くらいしか思いつきません。その頃から少しずつ精神的不調を感じるようになり、自分の心に引きこもりがちになりました。10代後半から宗教や哲学に惹かれるようになり、高校生の頃まで持っていたある種の快活さを失いました。私は自分の暮らしている圏域に対する意識が元々とても強く、大学のあった東京というなじみのない場所に対する疲労が募っていったのかも知れません。

私は就職も決めずに大学を卒業しました。学問は相変わらず好きでしたが、アカデミアで地位を得るという考えは頭をかすめもしませんでした。地位やステータスというものが何を意味するのか、理解できませんでした。

私にとっては、大学1年から始めた執筆活動だけが意味がありました。会社や組織で働くということが全く退屈なことに思えました。それよりも自分の内面世界を書く方がよほど神秘的で魅力的だと思えたのです。

その後ある時、フランスに旅行する機会を得て、大学時代に中断していたフランス語の学習を再開しました。その時から、私はひそかに自分を社会に適合させるためのプログラムをスタートしました。

前に進んでいき、後ろには戻らないという時間概念を私は持っているようで持っていなかったのかも知れません。時間の先には何かしら目的がある、という考えを受け入れることができないほど、現在という時制しか持っていませんでした。

私は小さい頃からこの時まで、現在目の前にあるものにだけ興味がありました。私にとって、過去(記憶)はちょっと時間の関節を外してやりさえすれば、目の前に現前するものでした。私の主な執筆テーマは、過去や記憶のなかのもの・ひと・場所をいかに現在のものとして再び生き生きと感じ、時間を循環させるか、ということでした。私は執筆に膨大な時間を注ぎ込みました。頭の壊れたプルースト(フランスの小説家)のような感じだったかも知れません。

ところで、自分を社会に適合させるためのプログラムは、厳正に行われる必要があると私は思いました。フランス語の学習を再開するにあたり、私は勉強時間を1分単位で記録することにしました。鼻をかんだり、トイレに行ったりするわずかな時間すら、時間記録から除外しました。1日も欠かすことなく4年間ほどこれを続けました。多い時で1日に11時間勉強していました。並行して、高校時代に放棄していた英語の学習を始めました。今にして思うと、あまりにも偏執狂的なやり方だった気がします。

その結果、私はある程度までフランス語と英語を運用することができるようになりました。この頃には執筆はある程度ひと段落し、私は内面世界を描くという意味での執筆には、次第に興味を失って行きました。

続きます(多分)。

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