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拉麺ポテチ都知事16「ノーエビデンス、よござんす」

週に1度の更新をたまに逸脱しつつ喰らい付いている。先日、久しぶりに代々木公園で楽器の練習をしたら、大規模な工事をしていて驚いた。調べてみると東京五輪のためのパブリック・ビューイング場所の設置はしない、とのことなので、あれはワクチンの大規模接種のためのプレハブ小屋なのだろう。

国民の7割がワクチンを打った現在のイスラエルと比べても、死亡者の割合が少ない日本でそれを作る必要あるのだろうか。私に関しては接種するつもりがないので直接関係はないが、一応警備員に何を作っているのかを質問してみる。返ってきた「我々は何も知らされていません」「あの看板を見てください」という言葉は虚しく響いた。

さて、少し前に存在を知りながらも手を付けずにいた江藤淳「成熟と喪失」を読んだ。文学評論なのだが、作品の批評から日本近代の文明論に切り込んでいくという、何とも鋭い内容である。

読みながら、黒船来航などの外圧から明治維新に至った日本の近代文明や個人主義について若干ネガティブに論じた夏目漱石「私の個人主義」を思い出した。「成熟と喪失」は次世代によって、その続きを描いている様に読めたのだ。

私なりの簡単な概要を書くと、日本に近代文明がインストールされた結果として「母」というイメージが壊れ、それを求められる女性が自己矛盾に陥る。それに男性は戸惑い、社会は未成熟に向かう、ということだろうか。その傾向は文藝において、80年代の田中康夫「なんとなく、クリスタル」へと繋がっていく。

漱石は前掲書で「全員が個性的になったら分かり合えなくなる」と論じたが「多様性」という錦の御旗のもと、今の世相は近代が極まった状態と言えるだろう。私は「成熟と喪失」を読んで、やはり文藝やその評論には未だ形になっていない何かを掴む力がある(あった?)と感じた。少なくとも現状分析的なアナリストや学者よりは先見があったはずである。

ところで先日、東浩紀氏の雑談配信を見ていたら「フロイトは神だよ」と話しているのでハッとした。理由を少々雑ながらも要約すると「とんでもないことをノーエビデンスで言い切るから」ということで笑いつつも納得。

尾崎翠はフロイト来日時に講義を聞きに行ったが、よく理解できなかったらしい。私はそれが「第七官界彷徨」で精神衰弱を訴えるインテリ男性をコミカルに描いた理由のひとつだと思っている。「何でもかんでもパラノイアで片付けるのはどうなん?」という内容は当時においてクリティカルだったはず。それに個人的にも勉強不足とはいえ、精神分析に胡散臭さを感じてしまうことは否めない。しかしフロイトが切り開いた体系が学問として大きく展開し、後世に影響を与えたのは事実だ

現代社会はエビデンスをありがたがる。もちろんデータを積み重ねることを否定するつもりはないが、その方法論ではフェイクニュースや情報の多様化による自己や社会の混乱は避けられない。特に昨年の米大統領選以降、同じエビデンスから両極端の答えが導き出されるのを何度も目撃して個人的にも複雑な気持ちになった。こうなると根拠以前に思想や信仰の問題になってしまうし、そもそも証拠を頼っていては新しいものは生まれないだろう。

生み出すという点については、フロイトの様にノーエビデンスから感覚で新たな思考をブチ上げたり、文藝などの表現で空気から何かを生み出す方が価値があるのではないか。だが下手をすると、それも陰謀論に転がってしまうかもしれない。尾崎翠が茶化したのも何かにつけて「神経衰弱だ!」というフロイトの言を借りた戯言、つまり陰謀論と同じ思考停止だった。よって、それは除外されなければならない。

当欄は論考ではなく散文なので、表現が粗いのはお許しいただきたいが、今ここで私が論じているのは「与太話」「創造」に還元できると思う。SNSやポリティカル・コレクトネスが奪ったものはこれだ。合っていないことは悪ではない。悪意が悪であり、礼を失することが間違っているだけなのである。根拠や具体性がなくとも、良いアイデアが生まれたら議論して形にしていけばいい。

それが現代において大変に勇気がいるのだから困ったものである。

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