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拉麺ポテチ都知事46「勝手なRIP、繋いだMIC(死んだ天才へ)」

カジュアルな追悼がSNSに溢れている。近年あまりに多くの偉人が亡くなっているからであるが、なぜ超過死亡がこれほどまでに上がっているのか、政府から明確な理由は出てこない。それはそれとして、私個人は追悼文を基本的に書かないようにしている。リアルタイムで反応できるほどに故人について知らないか、あまりに知りすぎているからだ。

最近だと高橋幸宏氏やウェイン・ショーター氏の訃報には大きなものを感じたが、本当に追悼しようと思ったらRIPの3文字では足りるはずがない。先駆的に追悼をエンタメにした菊地成孔氏の慧眼には感服するが、ポーズとしてのレスト・イン・ピースこそ安らか、且つ速やかに眠れ。

そんな追悼に怒れるイカれた私でも毎年3月になると、ある人物のことを考える。それは11年前の3月7日に死んだ私とタメの天才のことだ。彼のことが忘れられない。たったの一度会っただけなのに。

・・・

彼と出会ったのは大学時代、下北沢ERAというライブハウスだった。とある企画で彼が組んでいたバンドと対バンすることになったのである。私は中学時代から長らくロックバンドを組んでいて、メンバーを変えながら上京後も活動を続けていた。担当はヴォーカルとサックスに作詞、作曲。今と同じである。

その日のアクトで同世代は私と彼のバンドの2組のみ、お互いに動物の名前をモチーフにしたバンド名で気が合うねと話した。私は何となく演奏して、それから彼の歌を聴いた時、自分と比較しようがないほど素晴らしく、驚愕したのを覚えている。「まるでマイケル・ジャクソンじゃないか。こんな奴がいるのに自分が歌っても意味がない」と思った。

ハイトーンヴォイスにすらっとした出で立ち、且つイケメン、非の打ちどころがない。まだ若かったし、同世代にそんなアーティストが存在するということが単純に悔しかった。バンドは東京事変みのある、今ではチャラいと思われそうなジャズっぽいサウンドだったが、当時はカッコよく聴こえた。ちなみにその時代、私が衝撃を受けた同世代のロックバンドは彼のグループとモノンクル・角田隆太が組んでいたバンドだけである。

彼のように歌えたらどんなにいいだろう、そんなことを思って瞬間的に正攻法のヴォーカリゼイションを諦めた。自分はあんな風には歌えない、だから違うスタイルを探す必要がある、そんなことを踏み切った結果、結局30を過ぎてからYouTubeを頼りに普通のボイトレをする羽目となった。タイパが悪すぎてZ世代に嘲笑されるかもしれないが、それによってさらに深く自分や音楽を理解できたと断言できる。とはいえ才能のないやつはまず愚直に普通のことをやるべし。

さて、その後も彼のバンドはコンテストなどで注目を浴びていた。個人的に再び彼のパフォーマンスを見る機会もあったが、演奏を楽しむ一方で、やはり自分の才能のなさに辛い気分を味わうばかりだったのを覚えている。その頃には人前でマイクを持つのはMCのみで、自分は歌えないとばかり考えていた。要するになぜ母親が歌の良し悪しを超えて、子守歌を歌うのかを理解できずにいたのである。

しかし時とともに段々と彼のことを考えなくなった。理由は単純にその後の活動がSNSで流れてこなくなったから。何年も存在を忘れていたが、ある時に彼の消息をSNSで知ることになる。目に付かなくなるのは当然だった。彼はバンドをやめていたし、音楽活動自体を無期限休止していたし、何より自らの命を断っていた。

文脈的にいけば命を絶つべきは私である。自分の才能のなさを苦に死んだという方が自然ではないだろうか。なぜ才能にあふれた彼が死ななければならなかったのだろう? なぜ才能のない私が生きながらえて、希望的な未来を信じていて、それでいて未だに音楽を続けているのだろう? しかもなぜまた歌っているのだろう? 下手なのに。

転機は我が地元を描いた映画『サウダーヂ』であり、そのなかでラップをしていたStillichimiya・田我流さんであり、同クルー・BIG BENさんの「自分でやればいい」という後押しだった。ラップとの出会いがマイクを取ることに対するネガティブな感情を払拭してくれた。そして言葉を発見した今となっては、他人と比較したとしても「俺は俺」で全てが片付く。

でも亡くなった彼に「自分の歌」の意味を揺さぶられなかったら、自分の表現に疑問を持つことはなかった。それを心から感謝しているし、存命だったなら今何をしていたかと夢想する。この先も東京事変が歌った“再生装置”のなかで、あるいは記憶のなかで彼を何度でも“再生”すると思う。

“PLAY”ではなく“再生”であるからして、彼はネット上で生き続ける、しかも永遠に若いまま。その一方で私は年齢を重ね続ける。しかし、それはどうでもいいことだ。たとえ翁になっても映像を懐かしむつもりだから。君のTwitterを遡りながら、つまり晩年の苦悩や葛藤のつぶやきを確認しながら、私は自分の表現を自分に問うだろう。

それにしても不思議なのは、生前に認知されてなかったかもしれないのに「たとえ地球の誰もが忘れても私は忘れない」と感じるほど、心に君の残響があることだ。天才には一度会えば十分なのかもしれない。名も知らぬ男の勝手な追悼を受け取ってくれ。

野島くん、ありがとう。
君の代わりに俺がマイクを握る。
RIP.

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