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多様性について考えるとき気を付けたいコト

先日、とある地域でスーパー銭湯が閉店を迎えた。
理由は一部利用者による公然わいせつが多発したためだ。
具体的には男性同士の性行為が散見されていたとのことだ。
一般の利用者が使いにくくなったこともあるが、
注意喚起を促す張り紙に対して、
LGBTQ団体からクレームが来たことも大きいのだろう。

さて、一番の問題はどこにあると思うだろうか?
トランスジェンダー達による性行為だろうか?
張り紙が問題だったのだろうか?
それとも団体が悪いのだろうか?

結論から話すと、単にモラルの話ではないかと思う。
例えばだ。
一般的な恋愛であったとしても混浴で性行為をするだろうか?
恐らくしないと答える方が大半だろう。
公序良俗に反しているからだ。
もちろん恥ずかしいという面もあるだろう。
同じように恋人だろうと何だろうと公共の場で性行為をしてはいけない。
それは一般的な倫理の話ではないかと考える。
そこにLGBTQだのなんだのはあまり関係が無いのではないだろうか。

今回は多様性という言葉を扱う際に気を付けていることを書いてみようと思う。
多様性そのものを考える以前の話だ。

あなたは差別をしているか?

さていかがだろう?
差別をしているだろうか?
差別と言うと極端な言葉に感じるかもしれないが、実際はそうでもないと思う。

差別とは、特定の集団に所属する個人や、性別など特定の属性を有する個人・集団に対して、その所属や属性を理由に異なる扱いをする行為である。

こちらはwikipediaでの差別の定義だ。
一般的に差別と言うと悪い印象を抱くだろうと思う。
しかし、差別とは文字通り差を別つということだ。

突き詰めるならそれは個を求める作業に他ならない。
人は切り分け、区別することで文明を築いてきた。
人種によって切り分け、文明によって切り分けてきた。
国、そしてひとまとまりの地域、日本で言うのなら都道府県、そして市町村。
更には学校や会社、親族、家族、親、兄弟、子、最終的には己という個になるまで。
ひたすらに切り分けることで細分化を図っている。
己自身と全く同じ存在はこの世にいないだろうと思う。

それではどこからが差別なのだろうか?
私にとって差別とは他者との差異を感じる能力でしかないと思える。
しかしまぁそんなことでは納得しないだろうから、
ここでは「人は他者との差を切り分けることで自分というパーソナリティを確立している」
ということだけ考えて欲しい。

もう少し分かりやすくしてみよう。

あなたはどう感じているか?

例えば、身体障がい者を見かけた時、あなたはどう感じるだろうか?
かわいそう?それとも奇抜?変だと感じるだろうか?
邪魔だと感じる人や、気持ち悪いという人もいるかもしれない。
感じ方それ自体は人ぞれぞれだ。
そしてそれは充分に差別ではないだろうかと思う。
別にそれ自体は悪いことではない。
なぜなら感じるとは対処のしようがないモノなのだから。
問題はここから。

感じたあと、その感情に対してあなたはどう考えるだろうか?
大切なのはここだ。

他者との違いを認識し、自身の感情を俯瞰して見る。
ここが一番大切だ。

俯瞰で見たあとは、自身の倫理や道徳と相談するといい。
自身が何をするべきか、何を考えるべきか、答えが出るだろう。
排除すべき差別とは
差別することによって相手が不快感を感じた場合を指す。
例えば、同情されたくない、かわいそうなどと思われたくない人も世の中にはいる。
そういった人物に同情することも立派な排除されるべき差別だろう。

冒頭のケースに置き換えると、中には同性愛者に対して嫌悪感を示す人もいるかもしれない。
それはそれで仕方のないことなのだ。
生理的な反応なのだから。
そして大切なのはそこから何を考えるかだ。
嫌悪感が有ろうとなかろうと、事実として同性愛者は存在する。
ならばただの文化の違い、そして認識の違いでしかない。
それならば単なるモラルの話だろう。
恋愛観の違いの話と置き換えてもいい。
少々特殊な性癖を持っているだけの話だ。

意識的にしろ無意識的にしろ、人は必ず差別していると考えた方がいい。
例えどんな聖人君子であろうとも。
差別を非難しろとは言わない。
ただ、自身が差別していることを自覚しろ、という話だ。
その上で、自身の倫理と照らし合わせることで初めて
多様性について考えるべきだろうと思う。

もう少し話を広げてみよう

あなたは外国人に対してどう感じるか?


例えば海外からのお客様に、道を尋ねられたとしよう。
何処の国でも、どんな言語でもいいが、その人は本気で困っている様子で、悪いこともしなそうだとしよう。
ついでに自分は全然忙しくないし、なんなら案内する時間すらあるとしよう。
少々都合が良い話だが。

あなたはどう行動するだろうか?
もし言い訳をして逃げてしまうようなら、それは差別と何の違いがあるのだろうか?
あなたは国が違い、言語が違い、人種が違うというだけで他人を見捨てたことになる。
立派な差別と言えないだろうか?

今の時代、翻訳なんてスマホでいくらでも出来るだろう。
多様性というのならそもそも多様性の時代しか、存在していないのだ。
長きにわたり言語という壁で仕切られていたが、今はその壁もほとんど崩壊しているといえる。
ならば避ける必要など、自身の意思以外に何も問題は無い。
つまり、自分の意思で選択的に排除されるべき差別をしたと言える。
これほど悲しい話もそうないが、これほど良くある話もそうない。

このように、差を感じること自体は何も問題は無い。
問題はその差に対してどう思考するかだ。

受け入れなければ受け入れられることは無い

極論ではあるが、差別とはあまりにもこの社会に浸透している。
そしてどんな人物であれ差別感情はあるのだ。
そこを自覚できているかどうか。
そして自覚した上でどう判断するのか。
己の倫理と照らし合わせ、どう対処するべきか。
ここが多様性を論じるうえで大切なことだと私は考える。

現代、SNSの発展によってより「個」というものが溢れてきている。
そしてAIの台頭によってますます個性が大切になってくることは間違いないだろうと思う。
そうなると性差や国、文化の相違、そして身分格差、果ては趣味、そういった「違い」というものがどんどん浮き彫りになっていく。
多様性を越えてカオスとも言えるような状態になっている。
そのような社会の中で生きていくためにどうするべきか。
倫理と道徳、そして何が正しいのか。
常に考え、自身に問いかけ続ける必要があるだろう。

他者を受け入れない者は、他者に受け入れてもらうことは無い

もちろん何もかもを受け入れろという話ではない。
排除されるべき差別とは、相手に不快感を感じさせる差別だ。
要するに、相手の事を慮った発言や行動を、意識する。

その上で、自身の許容の範囲を広げていく。
つまりは見識を広げていく。
地道にそういったことを繰り返していくしかないのだろうと思う。

誰かの言葉を鵜吞みにする出なく、自身で考え続ける。
答えはいつでも流動的に移り変わっていく。
自身の思考も新しくしていかなくてはならない。
柔軟な思考を心がけ、違いを受け止められる心の広さを持ちたいものだと私は思う。

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