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何者かになれましたが、

いま、被写体活動の分岐点に来ていると思う。
そんな私の今とこれからについて考えてみる。



これまで表現してきたこと

1年間の被写体活動を通して、私はこれまで何を表現してきただろうか。
そう考えながら作品を何度も見返したり、noteを最初から読み直してみたりした。

そこには、被写体として少しずつ成長している自分がいた。
成長とは、シンプルに被写体力が向上したことはもちろん、被写体についての理解度が深まったことであったり、被写体の可能性について考えることができたことだ。

写真を撮る度に新しい自分に出会えるのは楽しいし、コンセプトを決めて挑んだ撮影で想像以上の作品が生まれるのはやりがいを感じる。
そう思いながらこの短期間で様々な表現に挑戦してきたつもりだった。
「ありのままであること」を大切に、被写体としての自分の在り方を追求してきたつもりだった。

撮影を重ねる中で、自分って横顔良いなーとか、飾らない表情が良いなーとか、笑顔も思ったより悪くないなーとか新鮮な気づきがあった。
つまり私がこれまで表現してきた事は、ありのままだけど「新しい自分を見つける事」だったのかなと思う。
可能性とか挑戦とか、その辺りの言葉がキーワードになりそうな感じの。
だけどその表現の方向性を、前回の撮影辺りから見失っていたように感じる。

それは、撮り飽きたわけではないし、これ以上表現の幅を増やすことができないというイップスでもない。これまで以上のクオリティのモノを生み出すことはできると思うし、これまでに無かった表情や雰囲気を写真に収めることもできると思う。
それなのに抱えるこの停滞感。
それは多分、これまでの積み重ねによって私の目標であった「何者かになること」ができたからだと思う。

私はこれまでずっと、何者かになりたかった。
その夢が叶ったから、表現に対する勢いが弱まっているのではないだろうか。

だからこれは停滞ではなく分岐点だ。
いま私は、何者かになれた後のことについて悩んでいる。



何者とは

この「何者かになりたい問題」は、自分事だと思い強く理解できる人と、まったく意味が分からない人に分かれるらしい。
私は学生時代から、それこそ中学に入る頃からずっとこの感覚に追われている。

殆どの人の場合、特定のコミュニティ内で認められる事で自身を相対的に評価し、自身に価値を感じる事で「何者かになれた」と思えるようだ。
「特定のコミュニティ内で認められる」とは、地元で特定の友達とつるむ事や、会社で役職を得る事や、サークルなどで周囲から頼られる立場になる事や、家族を作って自分だけの居場所を作ることなどだ。

世界規模で見れば自分の存在なんてちっぽけで世界に対してなんの影響も与えることができないのに、小さなコミュニティ内で認められるだけで自分が存在していると強く認識できるなんて、人って面白い。

私の場合、それらを重要視できないから同じ環境に居続ける事ができない。「歴が長ければ偉い」という風潮がどうも苦手だ。
私は重度な能力主義者なんだと思う。
私の場合、「長く居続けたコミュニティで評価されるのは自然な事であり個人の能力に依らない場合が多い」と考える。
そのため私は、初対面同士が集まったコミュニティで特定の主要なポジションを得る事ことを可能とする力こそが「(何者かであるための)本当の個の力」なのだと思う。

初めましての人と接するとき、表情や服装や話題選びで大体の人間性が想像できる。
そんな様々な判断基準がある中で、人のイメージ構成に大きく影響を与える要素のひとつが「何をしている人なのか」ということだと思う。
これを如何に簡潔に、如何に説得力を持って説明する事ができるかという事が、私にとっての「何者かになれた」という事なんだと思う。



何者かになれた

私はこの被写体活動を通して何者かになることができた。
それは人として大きく成長できたというよりは、シンプルに「私が何者であるかを簡潔に説得力を持って説明する事ができる要素が揃った」という事だと思う。

要素とは、

  • 【写真】服装や髪型や雰囲気など、私がどんな人なのか分かる沢山の画像を用意出来たこと

  • 【ホームページ】これまでどのような活動をしてきて、どのような仕事を受けているかが分かる状況になったこと

  • 【note】私がどのような考えで活動しているかを共有できたこと

この中でも特に【写真】の存在は大きい。
人間性って顔に出るし、好みは服装や髪型にでるし、性格は表情にでる。
自分の写真を見ると、どれも「俺っぽいなー」と思う。
それはただ「自分の顔だから」というわけではなくて、雰囲気も表情もなにもかも、自分の生きざまを見ているように感じる。

でもこれは単に「いっぱい写真を撮ったから」ではないと思う。
これは、「被写体としていっぱい写真を撮ったから」だと思う。

友達に撮ってもらった写真や自撮りをインスタに掲載するとしても、多分それは自分にとって理想の写真だけを選別して掲載するだろう。
キラキラしている自分、お金を使った自分、楽しそうな自分、雰囲気の良い自分など。
けど被写体の写真は違う。被写体の自分は、本当にありのままの自分だ。
「こんな表情ができるのか」「こんな雰囲気を出せるんだ」と新しい自分に出会い、気づき、受け入れて、公開する。
最大限に「自分らしさ」を表現できていているからこそ、私の事を知らない人に写真を見せただけで私の人物像を想像してもらう事ができると思う。

私はこれまでも色んな事に手を出していて、友人には「会うたびにやってる事が変わる」と言われていた。
だから「あなたってどんな人」と問われた時に、何から説明したら良いか分からずに短時間で特定の情報を渡す事ができなかった。
時間をかければ仲良くなれたが、時間をかけなければ不安定な存在として扱われた。

けど今は、様々な事に手を出している事に変わりないが、被写体として活動することで明確なひとつの軸を手に入れたように感じる。
これまで生きてきて体験したこと、学んだこと、挑戦したことなど、それら全てをひとことでは表せないけど、それを凝縮した自分という人間を表現することには成功したと思う。
「これが私です」と言える状態。

これが私にとって「何者かになる」ということだった。

今では知っている人でも知らない人でも、私の近状について数秒で伝える事ができる。1分もあればインスタを開いて写真まで見せる事ができる。
知ってくれている人は「最近良い感じだね」と言ってくれるし、初めましての人にも、スムーズに自分が何者か伝わっている実感がある。
いま私は、自分が何者なのか胸を張って言える。
これが私の望んでいたものだったんだと思った。

だから私はこれ以上表現しなくても十分に何者かになれたと思って、停滞を感じたのだろう。
これ以降の被写体活動はもう趣味の領域ではないだろうか。
・・・と考えていたけれど、長年追いかけて来た焦燥感はまだ私を放してはくれなかった。



何者かになれた後に

私にとっての何者とは、「今この瞬間に自分を表現できたこと」で終わるわけではないのだ。

芸人の在り方と同じように、一度だけ有名になって消え去る一発屋ではだめだ。
その瞬間だけ需要が増大して知名度が向上したとしても、少し経てば忘れられる。
そして数年後には、もう需要なんてない。
ただ多少の認知度が残っているだけという状態。

だからそうならないために、何者かになれた瞬間に次の手を打つ必要がある。
次の手とは、また新しいネタを生み出すことではない。
そんな繰り返しでは、ネタが尽きた瞬間にお払い箱となる。

次の手とは、何者かになれた効果を利用して自分の立場を築くことだ。
芸人でいうと、一生ネタ番組にだけ呼ばれる存在になるのではなくて、バラエティを皮切りに、ドラマ出演や冠番組の獲得を目指したり、youtubeを立ち上げたりSNSで立ち回ったり、自分の得意な分野で生き残るために活動する。

それは被写体でいうと、ただずっと写真を撮り続けているだけではなく、この写真(ポートフォリオ)を用いて、自身を世間に売り込み、需要に合わせて変化すること、もしくは需要を生み出していく必要があるということだ。

その方向性は自由だ。
なんにだってなれる。

私はいま、これから進むべき無数の可能性の分岐点にいる。
被写体活動を通して様々な人と繋がれたし、新しいチャンスに巡り合う事ができた。
これを活用して、どう自分を表現していくか。

私は、どこの環境に居ても、どんな条件でも、その中から最適解を導き出して成功まで持って行く力を持った者が本当の何者かなんだと思う。

つまりそれは、ただSNSで無暗にフォロワーを獲得することではないし、お飾りの実績を積み立てることでもない。
「圧倒的な個」を確立した後は、その個を用いてどんな環境でも戦って行ける能力を育てていく事が大切だと思う。
もちろん、スキルを育てる一方で自分が戦いやすい環境を作っていくことも大切だ。
スキルとは人間力の向上を意味し、環境とはコミュニティや活動の場のことだ。

そうすることで、何年経っても消えないどころか、むしろ強くなってそこに在り続ける事ができると思う。
だから、色んな可能性を模索したい。
それは自分自身が「存在する」ためでもあるし、これから出会う面白い人と最短で面白い活動ができるようにするためでもある。

そうやってこれからも色々と藻掻いて行いきたい。
ただこれがどう転ぶとしても、この基盤となる被写体活動を辞める事はないだろう。
それは「何者かで在り続ける」ために必要だし、ただシンプルに楽しいと思えるからだ。



今回の話はこれで終わっても良かったが、余談話をひとつだけ。

表現者の気持ち

こう色々考えていると、表現者の気持ちが少しわかった気がした。
「被写体を利用してこれからを良くしていく」という私の考えとは違った、「被写体として表現し続けていく」事を選んだ人達の気持ちだ。

彼らは自身を作品として昇華させ続けている。
美術館に展示されるような写真は、どれも惹き込まれるし考えさせられる。
その域の作品は、ただ自分を表現するだけではたどり着けない気がする。
作品としてのメッセージを決めて、自分ではなく作品にフォーカスして撮影する感じ。

書いてみて思ったけど今はまだ上手く言葉にならないみたいだ。
ただ感覚的に面白かったので少し触れてみた。

これからも色々考えます。

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