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被写体活動の可能性

まだまだ多くの可能性を秘めている被写体活動について、私の感じていることを共有したい。
(少し前置きが長くなるかも・・)


被写体の目的

被写体って言葉は絶妙で、自らをモデルと名乗るには気恥ずかしいが、撮影に挑戦したり楽しみたいというニュアンスで素人に使われる。
「20代被写体女子」×「40~60代男性カメラマン」の構図が多く、露出の多い撮影などもありアングラ感の抜けない言葉だと思う。

私は、多くの被写体には「作品を作ろう」という気概が無いように感じる。
被写体である彼女らにとってこの活動は、非日常体験を楽しむ事や、割りの良いバイト程度なのだろうか。
それもそのはず、被写体とは写真を撮られる事がゴールで、作品制作はまだ別のスキルなのだろう。
だからそこに存在するのは、女子を撮るおじさんと金銭の発生。そして残された写真データ。これでは「#被写体」のアングラ感を拭い去る事はできないし、「#被写体」というコンテンツに輝かしい未来はないだろう。
私はもっと、「#被写体」にしかできない表現・作るべき世界観は無いのかと考えた。

「#被写体」として活動している中には、様々なメイク、衣装、装飾を施し世界観を作っている人達もいる。
それは、コスプレとは違ったコスプレ撮影のような楽しみなのだろうか。
彼らの活動は彼ら独自の世界観の表現であり、一般的にイメージする「#被写体」とは違うかもしれない。

普通の「#被写体」がアングラ感を払拭し、より輝かしい未来を描くコンテンツになる方法はないだろうかと考えた。


もっと自然に、日常を切り取って。

私は被写体の魅力を、「ただありのままであること」だと捉えている。
モデルのように、服を映えさせるスタイルは必要ないし、商品を映えさせる透明感も必要ないし、ヘアスタイルが良く見えるような顔も必要ではない。
必要なのは、ただありのままの姿を切り取られる能力だと感じる。

「#被写体」が表現するべき世界観はモデルのそれとは違う。
つまり被写体とは、モデルの下位互換ではないということだ。
モデルの卵が撮影慣れするためや自身のポートフォリオのために「#被写体」として活動することはあるが、それのみが唯一の例外であり、その他の被写体は、モデルとは違う「#被写体」を確立するべきだと思う。

この、モデルと被写体を分ける方向性こそが「ただありのままであること」だと思う。


ひとの良さ

写真を作品として残す時には、やはり雰囲気のある所で撮りたいと思う。
しかし、いざそういった素敵な空間を前にした時に、「これ、俺必要?」と感じる場面があった。

例えばこちらの空間、

あなたはこの写真から、どんな物語を想像しますか。

ひとは存在せずとも人の名残を感じられ、この一枚の写真から、この一つの空間から、様々な生活シーン・物語を思い描く事ができるだろう

既に充分な絵に、これ以上の加筆は必要だろうか。
この空間に人という要素を加えることで、この写真から考えられる余白を奪う事になるのではないだろうか。
そう感じる。

そんな不安に駆られながらも、いざ人を加えてみると、これまで以上に温度感を持って物語を描く事ができるようになる。

あなたはこの写真から、どんな物語を想像しますか。

このように、空白を埋め、物語をより鮮明に起草させることができるのが、ひとの良さだと思う。


被写体の向こう側

写真を通した物語を楽しむにあたって、写真自体の良さや顔の良さはあまり重要でないと感じる。
良い物語が描ける写真を撮るためには、被写体側の「可愛く(かっこよく)撮って欲しい」という思いと、撮影者側の「綺麗な写真を撮りたい」という思いを超えて、二者の認識を擦り合わせる事が重要だと考える。

二者の認識とは、撮影のコンセプト決めから始まり、訪れた場所の雰囲気をふたりで言葉にし、そこにマッチした被写体で居ようとすること、そこにマッチした世界を切り取ろうとする試みのことだ。

また、良い物語が描ける写真を撮るためには、被写体の「ただありのままである姿」を最大限引き出す必要がある。
そのためには、「ただ目の前にいる人間をより良く撮る」のではなく、その人間を知り、理解し、その背景にある物語読み取る事で、写真を通してその人の良さを表現することができるのではないだろうか。
逆に言えば、この共通認識の薄さが、撮影を「ただの撮影」にしているのではないだろうか。

撮影するという行為を時間で切り売りしている関係では、その先に進むことはできないのではないだろうか。


撮影のその先

これまでの話で「物語」や「世界観」といった言葉を用いてきたが、その正体はなんだろうか。


これまで私は、写真は「消費され易いコンテンツ」かつ「あまり見る側が楽しくないコンテンツ」だと思っていた。
写真を見ると、「可愛い」「かっこいい」「おしゃれ」など様々な感想を抱くが、それ以上にじっくりと眺める機会はないと思う。
音楽は何度も聞き入る事ができるし、小説はその世界へ導いてくれる。
しかし写真は、流し見されるような感覚だ。

それは、写真を撮る事のハードルの低さが問題だろうか。
音楽や小説は簡単には作れない事を知っている。
しかし写真は、手軽に撮影できることを知っている。
だからそれを閲覧する時に投下するコストも、その程度なのだろうか。

ではこの「流し見されるような感覚」はどうすれば変化するだろうか。
先ほど写真から物語を想像できる楽しさについて触れたが、写真を見る時、多くの場合はそこまで至らない。
人は、そこに込められた意味を見ようとはしないのだ。

では、その「意味を見ようとしてもらう」にはどうすれば良いか。

いくつか考えられるが、例えば写真をポスターサイズなどに大きく印刷し、展示することだ。
「大きくする」「展示する」という2つの動作だけで、写真は作品へと変わる。
展示会場に来た人は、じっくりと作品を注視するだろう。
そして、その作品に込められた意味を考えるのではないだろうか。

もしくは、写真を本にして、文章を付け加えたらどうだろうか。
これは、見た人が自由に物語を想像するのではなく、こちらから物語を提供するという形だ。

さらには、被写体写真と言えば「勝手に人の写真を使ってはいけない」という暗黙の了解のようなものがあるが、むしろフリー素材として提供してはどうだろうか。
ひとつの写真を元に、それぞれが好きなテーマを付けて物語を考えるコミュニティを作るなどすれば、ひとつの写真から様々な物語が見れて面白いと思う。

これらの提案はどれも、写真自体の在り方を変えるものではないが、写真の価値を少し変化させる力を持っていると思う。
そうすることでより一層、見る側が楽しめるコンテンツに生まれ変わるのではないだろうか。


被写体の価値

被写体とは100%のポートフォリオだと思う。
それはつまり、再現性の高さを意味する。
被写体の能力とは、モノづくりのように素材によって変化するものではないし、歌やダンスのようにパフォーマンスによって変化するものでもない。
ただありのまま、そこにひとが存在し、その様子を写真に収める。

これこそが写真・被写体の持つ強さだろう。
そして、「ただありのまま」であるからこそ、そこに物語が生まれる余白があるのではないだろうか。


被写体の可能性

被写体として万単位のフォロワーを抱えている方は何人もいる。
彼女らはモデルではないし、インスタグラマーでもない。
ただ写真を撮り続ける、「#被写体」だ。

彼女らは若いグループで被写体×撮影を行っている。
それぞれが感覚を共有し、作品作りを行っているのだろう。
本当に写真が好きなんだと思う。

そんな彼女らがモデルにシフトチェンジしたり広告案件を受けたりしないのは、彼女らにとってそれが当たり前の「#被写体」の在り方なのだろう。
そういった、被写体を楽しむ姿勢で人を惹きつける彼女らに「#被写体」の可能性を感じる。

私もそうなれるように、もっと新しい挑戦をしていきたい。

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