美味美醜 2

 何曜日かの真昼だった。通りを歩く人の足音や、スーパーから出てくる主婦、トラックの音も聞こえてこない。暑かった。陽の光が脳天を叩きつけて、使い古した言葉を消そうとする。これまで口にしてきた言い訳めいた説明も、どこかに消えた。
 扉を開けると、「どうぞ」と声がした。私は言われるがまま足を踏み入れた。
 順番まで三十分ほど待った気がする。待合室は明るく、中高年の男女が陣を取っていた。誰もが六十五歳くらいだと思う。あとから入った私は一番若かった。空いた席が見えても、決してそこに座る気はなかった。
 女性が名前を呼んだ。薄暗い通路の奥に向かうと、医師がいた。
「バスの色は覚えてますか」
「黄色だったと思います。他に、色の印象がないです」 
「困りますね。はっきり覚えていない、ということですか」
「それが、黄色の他に思い出せないんです」
「質問を変えましょう。そのバスの乗客の中で、知っている人はいましたか」
「誰も、友人ではなかった気がします。家族も、いないようでした」
「ご家族も?」
「ええ。もし両親や兄、妹がいれば必ず覚えているはずです。親の顔を忘れるなんてありえません」
「ほら、白いマスク姿で駅から吐き出てくる群集がいるでしょう。あの中から、肉親を探すことなんて可能だと思いますか。私は無理です」
「探せると思います。家族ですから」
「いい台詞、頂きました。あなたは優秀です」
「そう言われても、違和感しかないです。私は、不十分ですから」
「ご自分でそう思ってらっしゃる」
「はい。だから旅に」
「旅に」
「ええ。カレンダーを見つめて、旅に出ようと」
「そうはっきり言えますか」
「わかりません」
「優秀ですね。言葉をなくす間を生むなんて、独裁者でも困難です」
 出かける前、部屋のカレンダーを見ている。
「微笑んでいました。一人暮らしの私に」 
「では聞きます。その女性についてですが」
 自分の声が大きくなることはなかった。白い壁。その上のカレンダー。毎月、この手でめくっている。三月。あとは同じ様な数字が羅列している。すべて、名前のない日々だ。
「ただ微笑んでくれただけです。印刷の中ですから」
「あなたは部屋を出た。バスに乗って、砂漠に向かって、この村にたどり着いた。間違いないですね」
「はい。カレンダーの微笑み、バスの揺れ、晴れた砂漠。自分が辿ってきた道くらいは覚えています」
「ご自分を優秀だと思いますか」
「先ほども言いましたが、不十分だと思っています。決して優秀ではありません。それに記憶が飛んだわけではないんです。もし飛んだとしたら、バスの色まで覚えていません」
「地図は、ごらんになりました?」
「ええ。どこへ行くにも、出かける前はしっかりと確認する方です」
「この村は存在していない、と疑ってますか」
「そうじゃなかったら、地図を見ないと思います。広大な砂漠の中にある、都会からは弾かれたような村です。人も押し黙って、旅人を避けようとしている。若い人が流れ、皺だらけの人間が残された。事実でしょう。ここで仕事をして、一定の給与をもらう人は減っているはずです」
 診察室の助手と、受付の若い女性が微笑み、仕事している。二人が白い肌を保つため、扉の中で働いているとは思えなかった。
 医師は口を開いた。
「あなたの関心は、なぜ若い女性二人がここで働いているか、そこですね」
「はい。他に若い女性が見当たりません。高齢者ばかりの村に派遣されたのでしょうか。同年代の女性がみんな外に出ているのに」
「二人も労働者です。しっかり時間内に働き、一定の給与をもらっています。おっしゃるとおり、若い人間は夢を追って出て行きました。事実です」
「都会に夢を見出せないでいるとか」
「そう思いますか」
「もっと雇用があるはずなんです。砂漠の向こうでは」
「二人がなぜ働いているか。市長に聞いてください」
「この村のリーダーに会わせてください」
「落ち着いて。随分とよくなりましたね」
「私の症状など、どうでもいいです。ここへ訪れた以上、ぼんやりして戻るわけに行きませんから。私も若者ですし、砂漠を歩く力もあります。うつむいて日々を過ごすことだけは避けたいのです」
「……素晴らしい効果です」
「何がですか。意思を示して何か問題あるんでしょうか。私はヒトですよ。実験中のロボットではないんです」
「ここへ来られたときと、顔色がまるで違っている。男性らしく、前へと立ち向かおうとしています。あいにくですが、この村のリーダーはいません。彼も出て行きました」
「たぶん、こうして対話を重ね、旅の目的をつかむことが治療の焦点ではないですか」
「では、最後に聞きましょう。砂漠までのバスの色は、何色でしたか。ニューヨークのタクシーと同じなら、正解です」
「赤でした」
「それはなぜ。イエローキャブをご存じない?」
「さっきは黄色だと答えました。あれは嘘です」
「なぜ嘘を」
「芝居ですよ。バスの色が黄色と言えば、私を疑うでしょう。それを避けたかった。だから嘘を言いました」
「質問を変えましょう。そのバスの乗客の中で、知っている人はいましたか」
「わかりません。友人ではなかった気がします。家族も、いないようでした」
「あなたとの対話、まるで人とロボットのようですね。砂漠を歩いてきたのに、水すら飲まない」
「飲まないと決めていたんです。喉の渇きを待って、知ってる日に帰ろうと」
「幸運を祈ります。なるべく無理せず、水を接してください」
 診察が終わると、私は席を立った。助手の若い女性がブルーのカーテンを開けた。待合室の明かりが柔らかく目に届いた。
 扉には〈楽園〉と書いてあった。
 およそ客を迎える気配はない。所々に傷が付いて変色もしていた。長く風雨に晒した跡がわかる。 
 始めに、バスに乗った。窓の向こうが広大な砂漠に変わると、汗も増えた。水が欲しかった。乾いた大地に降りた途端、名前すらも忘れた気がした。見渡しても草木はどこにも生えていなかった。ちぎれた雲も見つからない。空は青く、地平線だけが見えた。
 待合室にいた村人の顔色を思い浮かべた。男女とも老けて黙り込み、誰一人も心からの笑顔がなかった。ここには映画も、舞台も、人が芝居をする場所もない。村人たちが自ら排除して、言葉さえも消している。〈楽園〉の扉の向こう、医師がいる病院だけが憩いの場なのかもしれなかった。
 診察室で、口を大きく開けたはずだ。
 悲鳴は一瞬で聞こえなくなった。扉の下から、血が流れ込んでいた。

つづく

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