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【ペルシア史】

古代ギリシア文明は今では西洋史の起源と考えられていて、「ギリシア・ローマ文明」と呼ばれるほどです。しかし、その当時は小さな新興都市国家群であり、大きな勢力を持っていたのはペルシア帝国でした。
アケメネス朝ペルシア(BC550〜BC330)は古代オリエントと呼ばれた地域の4王国を倒して広大な統一国家を建設しました。4王国というのは、
①メディア
②リュディア
③新バビロニア
④エジプト第26王朝
その版図はエジプトからインダス川、ギリシア近隣のエーゲ海にまで及んでいました。まさに「世界帝国」と呼べるものでした。

《予備知識》
「ペルシア」というのは今のイラン地域のことです。そして「イラン」は「アーリヤ人の国」というの意味です。

ダレイオス1世(BC522〜BC482)はアケメネス朝ペルシアの第3代の王であり、帝国の最盛期の王でした。帝国内に「王の道」として知られる約2,500キロ(スサ〜サルデス間)に及ぶ公道を整備し、街道に宿駅を設置して物質・情報を移動させる制度を確立しました。この宿駅制度が中央集権的な制度を効率的に機能させることに貢献しました。しかし、自分はむしろ物資の流通が容易になり、商業活動が盛んになったことの方が重要だったと考えています。

ゾロアスター教について考えます。
ゾロアスター教はペルシア発祥の宗教であり、アジア地域では「拝火教」として知られています。「光」を善とし、その象徴としての「火」を尊ぶ宗教とされています。アケメネス朝ペルシアで、ゾロアスター教は王家・王国の中枢を担う重要な宗教であり、帝国内の人々は広く信奉していました。

ソグド人について考えます。
ソグド人とは下記の通りです。
・中央アジアのソグディアナ地域を原住地としたイラン系住民。オアシス諸都市を結ぶ「商業民」として各地に植民集落を作った。
 つまり、ソグド人というのは「ペルシア人」のことです。そして、ゾロアスター教を信奉していました。彼らは「商業民」だったので、交易を通じて中国を含め各地へ移動して行きました。

「ソグディアナ地域」とは下記の通りです。
・ソグド人の本拠地。東西交通路の要衝として、サマルカンド・ブハラを中心に商業が発達する。
 この地域は後に「シルクロード(絹の道)」と呼ばれる通商路上に位置していました。「シルクロード」は別名「オアシスの道」と呼ばれます。この「ソグディアナ」と呼ばれ、オアシス都市のサマルカンド、ブハラがあるのは現在のウズベキスタン共和国です。現在でも2,500万人程の人々が暮らしています。

《予備知識》
ソグド人のことを中国人は「胡人」と呼びました。

アケメネス朝ペルシアのことを考えています。
アケメネス朝ペルシアは紀元前550〜紀元前330年に存在した世界帝国です。紀元前4世紀に勢力を伸ばしたエーゲ海の古代ギリシアの都市国家群より古い王朝です。紀元前272年にイタリア半島を統一を果たしたローマも、この時代にはまだ小さな勢力でした。まして、紀元後630年にアラビア半島のメッカを征服して以降勢力を伸ばしたイスラム国家は存在すらしていませんでした。

アケメネス朝ペルシアは紀元前500〜449年のおよそ50年間に渡り、ギリシアの諸ポリスの征服を目指して戦争を起こしました。ペルシア戦争です。結局ペルシアは敗れてしまいますが、勢力が衰えたとはいえ滅びることはありませんでした。
では、アケメネス朝ペルシアはどのように滅びたのでしょうか?それが有名な「アレクサンダー大王の東方遠征(BC334〜BC323)」です。

アレクサンダー大王(BC356〜BC323)はギリシアのマケドニアの王でした。哲学者アリストテレスに学び、20歳で王に即位しました。ギリシア連合軍を率いてアケメネス朝ペルシアを破り(BC330)、インダス川まで東方遠征を行って大帝国を打ち立てました。その帝国はギリシア、エジプトからペルシア、インドにまで至る大きな帝国でした。しかし、遠征後アレクサンダーは33歳の若さで亡くなります。アレクサンダーの征服した領土はディアドコイと呼ばれる後継者たちにより、3分割にされました。
3分割された王朝は下記の通りです。
①アンティゴノス朝マケドニア(BC276〜BC168)
・ギリシア系王朝
②セレウコス朝シリア(BC312〜BC64)
・ギリシア系王朝
③プトレマイオス朝エジプト(BC304〜BC30)
・ギリシア系王朝
 この3つの王朝の中で②のセレウコス朝シリアから自立して成立したイラン系国家がアルサケス朝パルティア(BC248〜224)です。中国の呼び方では「安息」と呼ばれ、西アジアで初めて中国と交渉を持った国家とされています。

 アルサケス朝パルティアは、イラン系国家でありゾロアスター教を信奉していました。東西交易で繁栄しました。その意味ではアケメネス朝ペルシアの後継王朝と呼ぶことができます。当時勢力を伸ばしてきた西方のローマ帝国と対立しましたが、イラン高原に起こったササン朝ペルシア(224〜651)により滅ぼされます。

続くササン朝ペルシア(224〜651)は、「純粋な」イラン系ペルシア王朝としては最後の王朝になります。純粋なイラン系ペルシア王朝というのは下記の要件を満たす王朝です。
①ゾロアスター教を信奉していること。
②ペルシア人が樹立した王朝であること。
 ササン朝の最盛期の王はホスロー1世(在位531〜579)です。ホスロー1世は東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝と争い、ギリシアのアテネから逃れてきた学者を保護し学術研究を奨励しました。
ササン朝の後に現れるのはペルシア系の王朝ではなく、今日にまで存在する「イスラム系の王朝」に変わっていきます。ササン朝ペルシアは、642年にイスラム軍と争い二ハーヴァンドの戦いで完敗。651年に滅びます。この事件以後、アラビア半島から出て来た新たな「イスラム勢力」が台頭して来ることになります。

ササン朝ペルシア(224〜651)は、紀元前に存在したアケメネス朝ペルシアの後継王朝であることを自称した世界帝国です。その領土もアケメネス朝と同様に広大なものでした。
その特徴を幾つか挙げてみます。
①ゾロアスターを国教とする。
・ホスロー1世の時代に、それまで口伝で伝えられていた教義を「アヴェスター」という教典にまとめる。
②美術・工芸(ササン朝美術)
・イランの技術にギリシア・インドなどの要素を加えた優れた美術工芸品を生み出す。銀器・ガラス器・織物に優れ、交易路を通じて中国・日本にも伝わった。法隆寺や東大寺の正倉院にもその工芸品が収められている。
③アテネの学者受け入れ
・東ローマ帝国でキリスト教学が発達したことに伴い異教排除が進み、529年ユスティニアヌス帝がアテネのアカデミアを閉鎖。失業者した学者が大量にササン朝に移住。ギリシア語・ラテン語の文献が多数翻訳された。
④エフタル攻略
・エフタル(420〜567)は中央アジアに起こった巨大な遊牧国家。ササン朝は突厥と挟み撃ちにしてエフタルを破り、中央アジアに領土を広げる。
⑤キリスト教徒の受け入れ
・ローマで異端とされたキリスト教の一派(ネストリウス派)を受け入れ、その活動を許した。ネストリウス派キリスト教は中国では「景教」と呼ばれる。

ササン朝ペルシアについて掘り下げているのは、その世界帝国の終わりが「イスラム教国家」拡大の時代との分水嶺にあたるからです。ペルシア帝国はアケメネス朝(BC550〜BC330)から始まり、途中にアレクサンダー大王の征服、後継のアルサケス朝パルティア(BC247〜224)があり、ササン朝(224〜651)とおよそ1,200年間この地域で勢力を奮いました。
その特徴は下記の通りです。
①ゾロアスター教の信奉
②イラン系の王朝
③ソグド人の商業発達
④ササン朝美術の発達
⑤世界帝国として広大な領土を保有

このササン朝ペルシアは、新興のイスラム教勢力の登場により敗れて滅びます。逆から考えれば、「イスラム教国家」はササン朝ペルシアを滅ぼすことで、一気に「世界帝国」へと飛躍しました。その領土、国家制度、商業活動、学術研究の全てを一気に手に入れたのです。その飛躍的な発展には、イラン人が1,200年かけて築いたペルシア帝国の遺産があったのです。

そして、この「イスラム国家」というのは「アラブ人」が主導権を握る国家のことです。つまり、イラン人の覇権がアラブ人に奪われたのです。「イスラム」が分かりにくいのは、アラブ、イラン、トルコ、インド、アフリカと幅広く捉えられているからです。全て同じではなく、それぞれ区別して考えなければ理解することができません。ペルシア帝国について考えながら、イランの覇権が終わりアラブの覇権が始まる世界史の境界点を捉えてみました。

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