ぼくはいつもやまぐちなおとの仮面を被る|
人は分かり合うことができるのだろうか?
それはきっとむずかしいことだよね。
様々な答えをそれぞれが持っているのだろうと想像はしてみるけれど、ぼくの中では人は分かり合えないものだと思いながら、コーヒーを片手に『今すぐ眠りたい人向けアルファ波』の心地良い音楽の中でまどろんでいる。
今こうして一人でパソコンに向かうぼくもいれば、みんなの輪の中にいるぼく、カメラマンのぼくやシェアハウス管理人のぼくがいて、いつもその表情や気持ちは変わっていくものだと思っていてる。
自由を欲して何もかもから解放されるように生きた20代とは違って、30歳になる頃には『その場所に根づいてみる』とかなんとか言ってはみるけど実際のとこはぼくにもわかってない。
そんなぼくはシェアハウスやっていて、不思議と人と会うことが多くなってきて、仕事柄カメラマンでもあるから余計に人に会うことが増えている最近は、街に行くと必ず知り合いに会う。
これには驚きで、ぼくの住む松本市って割と長野県の中では都会な方で人口も多くてってはずなのに、なぜか田舎にいるみたいな歩けば知り合いがいて二、三、言葉を交わしてすれ違うんだ。
なんだか松本っていう大きな括りのコミュニティに入ったような気分。
どこへ行っても知り合いがいて、知り合いの店があって、夜飲みに歩けば知り合いがその店で飲んでるなんてこともあると、どうしても少しずつ他所行きの顔ってやつをぼくはしていく。
そんな時に役立つのが「やまぐちなおと」というもはや習慣化しすぎてオートモードで装着されている仮面で、この仮面のいいところってふとした瞬間に素早く取り付けるものではなくて常に被り続けているということで、どんな感情も、どんな言動も「やまぐちなおと」という仮面をつけながら他者へ向けられる。
これは決して何か壁を作っているという訳でも、距離を置こうとしてる訳でもなくてぼくがぼくでいるために役をやり続けているだけに過ぎなくて、ぼくがカメラマンとして活動するためには、管理人をやり続けるためには、こうやってキャラ設定を忠実に作り出して自分自身をブランディングしているのだ。
やまぐちなおとってこんな奴。
って誰かが思ってくれたら得ぐらいの気持ち
肩書きに執着したあの頃があって
肩書きをなくした今があって
カメラマンのやまぐちなおともいるけれど
管理人のやまぐちなおともいるけれど
それは全部今「やまぐちなおと」の名前でできている。
そのための仮面。
美味しいご飯に使わせていただきます