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それぞれの世界で生きること。

自分に一生縁のなさそうな、荒唐無稽で突拍子もないことを考えるのが好きだった。

例えば、謎のエージェントがいきなりアポなしで家にやってきて、こう言う。
「お前には今から特殊な改造手術と訓練を受けてもらう。そしてF1レーサーかプロレスラーになってもらう」
「さあ、どちらか選べ」
いやー、どっちも無理っす!
でも、なんでわたしが?
「お前がどちらかにならないと世界が!滅ぶのだ!」
なるほど、世界が滅ぶのか。
私の職業選択と世界の滅亡がなんでつながるのか、当然何の説明もない。
そこは謎のまま話がすすむ。
ともあれ、世界が滅ぶ。
それはそれでいいかもしれないけど、ここは空気を読んで驚愕しておこう。
なんと!世界が!それは大変だ。
じゃあ、ちょっと悩ませてください。
うーん。
プロレスは合法的に暴力をふるえるっぽいところがすごく魅力的だ。
わたしには一度でいいから、捕まらずに思い切り人に暴力をふるってみたいという最凶最悪な願望があるのだ。
それに人気レスラーになれば、きっとお客さんからすごい歓声がもらえるだろう。
自己肯定感爆上がり。
テレビに出て有名人になっちゃうかもしれない。
でも怪我をしたらすごく痛そうだ。
曲がり間違って首なんて打ったらコトだぞ…。
F1レーサーはどうだろうか。
音速のスピードでマシンを動かせたらさぞかっこいいぞ。
わたしには一度でいいから、捕まらずに法定速度ぶっちぎりで車を運転してみたいという最低な欲望があるのだ。
優勝したりなんかしたら、シャンペンをかけてもらってテレビに出て有名人になって…。
でも、運転をミスったりしたら即死する可能性も大いにある。
うーーーーーん。
ここはひとつコイントスで決めるか。世界の平和のためにな!
(ここで食べていたポテチを床にこぼして我にかえる)

*

かっこいい職業や、世界を救う役目ほど、私に向いていないものはありません。
いや、ぶっちゃけ私に出来る仕事など現実世界では皆無です。

皆無ではないかもしれないけど、すごく少ないだろうなって今は知っています。

わたしの、つい最近までの職業観って、本当に上記の妄想に近いものがあったな、って最近気付きました。
恥ずかしいけど、仕方ない。
ほんとうのことだから。

すごく大真面目に、
「世間的な成功」か「自己犠牲をして尊い仕事をする」
のが大正解で、そのほかの凄く繊細なグラデーションの中の無数の「仕事」
に目がいっていなかった。
だから苦しかった。

でも、今はちょっとだけ違う価値観で生きることが出来ています。
なにか、自分の中でビッグバンが起こって価値観が変わったわけではありません。
生きて、当たり前に苦悩したり楽観視したり、死にたくなったりを繰り返してきて、だんだん、変わってきたというだけ。

そういう「仕事」について考えたことをちょっと書けたらなと思います。

「どんな仕事なら素晴らしいのか」「どんな仕事なら満足できるのか」

当たり前だけど、才能×努力である程度世間的評価が決まってしまう職業というのがまず存在しますよね。
棋士とか、ピアニストとか、アスリートとか。

そういうちょっと特殊な職業でなくても、努力だけではどうにもならない業界というのは多数存在すると思います。

そもそも入社時にそんなにたくさんの人数を採らない、という職種だってあるし、人としての楽しみは放棄するくらいの勢いでむちゃくちゃ勉強しなきゃなれない職業だってあります。

例えば、医師や弁護士、会計士などの職業も、まず勉強を頑張れるだけの「環境」がどうにかあって、受験を突破して、難関資格を得て、研修期間があって、そして勤務したり開業したりしてはじめて一人前と認められる。
その道のりを想うと、途方もないなと素直に思いますし、倫理観や専門性を強く求められる職業に就くという事は、それによって得られるステイタスや収入を上回る苦労があるでしょう。

わたしは30を過ぎてからそれまでいた業界に見切りをつけて、国家資格をとったことで初めて正規で雇ってもらう、という経験をしました。

わたしの貧しい体験だけでものを申すのは大変おこがましいと重々承知で言うのですが、30歳を超えてから、一応その名称のもとで食べていける国家資格を取るのは(すごく頭のいい人は知らんけど)控えめに言って、大変でした。
若い時とは比べ物にならないくらいに物覚えが悪くなっているし、下手に要領かまそうとするので、却って遠回りになったり。

しかも、今現在は結婚してその仕事も辞めとるし。

ふつうなら、何がなんでもくらいつきますよね。
私もそう思うもん。
女性が自分で食べていける道を自分でみつける、のが今の主流の考え方だし、わたしもそれを否定しない。
素晴らしい面も沢山あるし、なにより自由に使えるお金があるってすごいいいよね。

でも、ひとことでは言えない、いろいろなことが起きて、いま、わたしは、自分に分かりやすい「肩書」をつけることを休憩しています。

もしかしたら、一生死ぬ迄休憩しているかもしれないけど、それはそれで構わないかも、と(少しの負け惜しみまじりに)言ってみる。

女性が自分で食べていける道を自分でみつける、のはとってもいいことなんだけれども、色んな理由でそれができないけど、食べてはいけてるという、なんとも言えない「隙間の世界」にいる女性にくよくよしてほしくないなあと思ってます。

例えば、わたしはいま、「自分の」「賃労働」はしていません。
しかし、結婚した相手が自営業者だったので、月に何日かは事務所に行って手伝いに行き、お給料も少しいただいています。
請求書を発行したり、足りない事務用品や備品を揃えたり、お客様にお茶を出したり、たまーに電話番をしたり。税理士さんと月に一度ミーティングするのも、わたしのお役目です。
そう、わたしは「世界一しょぼい経理庶務係」なのです。
(※そして、こういう「社長夫人」のほうが、世の中にはよっぽど多いのではないかと確信しています。
外車乗って高い服着てランチ、みたいな夫人は、多分、それこそ妄想の世界か、ごく一部の限られたエリアにしかいないと思うのよ。
うちの事務所が入っているビル、テナントのほとんどが夫婦でまわしているし、私の中では「社長夫人」≒「髪振り乱して汗水たらしてる」印象。)

でも、会社での一番大事なわたしの仕事は、社長である夫の愚痴や、正式な事務員であるSさん(仮名)の要望を聞いてあげることなんだと自分では思っています。
それは、夫やSさんに依頼された「仕事」ではありませんが、自分で考えて自分でつくっている、私にしかできない「仕事」ではあります。
いや、もっと毎日行って手伝えやという声が各所から聞こえてきますが、無視です、無視。
わたしはわたしの働き方でやるのです。
家で地味にできる業務も多いしね。

その他は、まあ、完ぺきとは程遠いけど、家事。
特にごはん。
掃除できていなくても死なないけど、ごはんは食べなきゃ死にますからね。
と言っても、それも全然完ぺきではなくて、最終的においしければなんでもよい、という極めてずぼらなスタイル。

あとは、おうち大好きマンなので、ひたすら本を読んだり、ぼーっと庭の木を見ていたり。

ここまで自分のことを正当化?出来るようになってきたのもここ数か月の話なんですけどね。
いまでも、心の奥底では、自分ってだめだな~と思ってはいます。
書いていて悲しくなるほど何もない人間なので。
そして、しょっちゅう「自分嫌い」「自分不要論」「死にたい」「きらきらしている人がうらやましい」の波に飲み込まれます。

だけど、「仕事」というのは、本当に無数のグラデーションで出来ていて、どの層が欠けても駄目なんじゃないかと思うようにはなった。
技術の進歩と共に、時代の流れが大きく変わり、その中で必要とされなくなった「業務」は存在するかもしれないけれど、「仕事」というのはもっと、多彩な在り方であっていいと思います。

特にこれという職業に就いていなくても、介護や看護を頑張っている人。
外出は出来ないけど、家のなかでずっと作品を書いている詩人。
わたしのように家業を手伝いながらぶらぶらしている人。
今は子供といっしょにいてあげようと思って「賃労働」はとりあえずストップしているお母さん。
本業はミュージシャンだけれど、アルバイトもしているという人。

それ以外にも、わたしには想像できない無数の「人の在り方」が本当はあるはずなんです。

仕事って何なんだろう。
それを、本当に最近よく考えるようになりました。
社会に必要とされる人ってよく言うけど、社会は、人に必要としてもらえる在り方をしているのかな。

答えはまだ出ないけど、きっと生きているということに、そこまで意味を持たせなくてもいいんじゃないかなって感じています。

ひとりひとりが「自分が必要だと思うもの」としっかり繋がって、「社会に必要とされる」ってことにあまり拘らなくていい世の中になればな、って思う。

社会は変容するから。
変容する社会は、その時々で「必要とされる人材」をころころ変えるから。

わたしは、人がもっている「それぞれの世界観」がとっても好き。

みんなの世界観のいろんな面がきらきら光りながら、わたしの目の前を通過してゆく、その感じがとっても好き。

平たい、面白みのない世の中になりませんようにっていつも祈っています。

わたしは、なので、エージェントに脅されても改造手術を受けないとおもいます。
今日クリームシチューを楽しみに帰ってくる人がいるので、それを作る仕事をしなくちゃいけないからです。




•ө•)♡ありがとうございます٩(♡ε♡ )۶