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『ずれ』がカッコいいカワイイの原点だったとしたら。。。

元東京首都大学教授の小田亮先生が書いた、元大阪大学総長の鷲田清一先生の『ちぐはぐな身体――ファッションって何?』を紹介するブログを読んだ。。。(なんか複雑。。。)

個人の社会的属性を現す服(コンサバな服とか制服とか)を『制度と寝る服』と言い、わざとむさくるしい格好、いかがわしい格好をするストリート・ファッションとか(ちなみに腰履きはプリズンスタイルという。。。いかがわし過ぎ)とか、あるいは服の文法をあえて侵す服(コムデギャルソンみたいなアバンギャルドな服)を『制度を侵犯する服』というらしい。。。

チョット『ちぐはぐな身体――ファッションって何?』を引用

先ほど「制度と寝る服」などという物騒ないいかたをしたけれど、たいていの服というのは個人のイメージについての社会的な規範(行動様式、性別、性格、モラルなど)を縫いつけている。その着心地がわるくて、ぼくらはそれを勝手に着くずしてゆく。どこまでやれば他人が注目してくれるか、どこまでやれば社会の側からの厳しい抵抗にあうか、などといったことをからだで確認していくのだ。が、それは抵抗のための抵抗としてなされるのではない。じぶんがだれかを確認したいという、ぎりぎりの行為、のっぴきならない行為としておこなわれるのだ。言うまでもなく、この過程はいつもそういうこととして自覚されているわけではない。ぼくらはファッションの冒険、(それがかっこよすぎるとしたら)試行錯誤をとおして、じぶんがだれか確定できないまま、じぶんの表面を、そういう社会的な意味の制度的な枠組とすり合わせつづけてきたのだ。

なるほどぉ!!確かにそうかも!!ファッションは着崩してなんぼ!!!でも、着崩したファッションが制度化されていることも。。。さっき注釈に入れた腰履きとかって着崩しているけどそれが制度化されてる。なんか、やんちゃな男子高校生って制度。。。なんか、そうなると反発したくなる。

鷲田清一先生は、さらにこんなことも言っている。。。

服の文法を外す、あるいは侵すような服が、いつも、ファッションの先端に位置するというのは、とても興味深いことだ。はじめてファッションについて本格的に論じた思想家ロラン・バルトは、その著『モードの体系』のなかで、「モードとは無秩序に変えられるためにある秩序である」とか、「モードはこうして、〈みずからせっかく豪奢につくり上げた意味を裏切ることを唯一の目的とする意味体系〉というぜいたくな逆説をたくらむのだ」と書いている。これは、たえず新しいもの、別のものへ欲望を生産するモードの論理にふれていわれていることなのだけれど、これを、おさまりのよいイメージの鋳型のなかにじぶんを成形して入れることの不断の拒否ととるならば、この二つの文章はそのまま、ちょっとつっぱったストリート・ファッションの論理となる。

カジュアルファッションがドレスダウンを信条とする。ドレスダウンの中で進化して『カッコいい』『カワイイ』が変化する。カジュアルファッションが生きたファッションだという証拠。死んだファッションは『カッコいい』『カワイイ』の変化はなく目指す形が存在する。だから、進化がない。多分それが『制度と寝る服』

『服の文法を外す』そこがファッションの進化の原点だと思う。つまり、少しずつずらして世の中に認められる最高のずれ方を表現する。そのことを『カッコいい』『カワイイ』という。

アラミド繊維でできた空軍御用達のジャケットに、ユルふわなコットンのワンピースを合わせる。こんなずらしを『カワイイ』と表現する。無骨なストレートデニムにヒール10㎝あるピンヒールパンプスを合わせる。こんなずらしを『カッコいい』と表現する。

さて、ここからが本題。。。もし、ずれが『カッコいい』『カワイイ』の原点だとしたら。。。トランスジェンダーが社会に認められ始めた今、その存在は最高に『カワイクてカッコいい』

それを、表現するトランスジェンダーのファッションってどんなものなのだろうか??新しい価値を創れそうな気がするんだけど。。。どうするとそのずれがファッションとして。。。いや価値として認められるんだろうか。

それで頭を悩ます今日この頃なのです!!

カッコいいイラストお借りしました。ありがとうございます!!