2024 6月の紫陽花と水無月、大人になって今。
歩いていたら、『こんなアジサイがあるんだ!』とびっくりしてしまった。
それが写真のアジサイ。
紫陽花が好きで、雨のしとしとの感じも好きで、なんなら雨の時に人が行き交うのをボーッとカフェから眺めている時間が好きだ。
でも、、冬ごろの紫陽花って、あれ?どちら様でしたっけ?と思うほどに悲しい、跡形の見えない姿に昔はなっていた気がするのだけど、最近の紫陽花って、なんなら年中、まあまあの感じで季節外れにも咲いていたりするのを見かけ、あれれ?手入れもされていないはずのこの紫陽花、季節を間違えてるのかな?と思うことが年々増えてきた。
世界中の天候、気候、それを受けてか自然のありようが変わってきたことを痛感する。
でも、紫陽花を美しいな、と思う気持ちは年々強まっていて、そんな自分は大人になったなと同時に感じるのだ。
というのも、子どもの頃の自分は、母がお花大好きで手入れに細かく時間を割くような人だったのに対し、花がなんだよ、みたいなひねくれた?子どもだったのだ。
でも、どれだけ母のように花に目を向けないと、、みたいに思って、そちらに寄っていく自分になろうとしても、全然そんな気持ちになれなかった。
不思議。
花って世の中に必要?くらいにめちゃ生意気な想いを単純に抱く子ども時代だったのだ。
だから母からすれば、可愛げのない子どもそのものだったに違いない。
やりにくさもあった子どもだっただろうな。
花や生き物を愛でる性分ていうのは、どこからくるのだろう、、と子ども心に思う時期もあった。
純粋にお花好き!と言える他の子を羨ましく思うことも。
そんな自分だったから、大人になってこんなに紫陽花だけでなく、他のお花を見ても、かわいいな、ステキだな、なんて感じられるこの感性が嬉しいのだ。ちょっと昔の子ども時代の自分が信じられないのだ。
歳をとるとみんながそんなふうに花を愛でるようになるのかな?でもそんな傾向に向かうのが大多数なのかなあと周りを見ていても感じる。
それにしても、自然に癒されるって大きいことだなと思う。
公園を歩いていても心地良くて、ただ、歩いているだけなのに心がスッとする瞬間に出会うことがある。
新緑の時期から梅雨の時期に入り、いよいよ真夏を迎える一歩手前の今、季節の移り変わりを近くの公園の姿からいつも感じさせてもらえているのはありがたいことだなと思う。
いやー、それにしても。
あのまま、自然を見ても、触れても、なんの感性もないままに大人になっていたら今の自分て??
何を癒しとして生きていたのだろう。
今日で6月も終わり。
先週、忘れぬうちに、と買い食いしたけど、今日も6月最後に食べる和菓子、水無月を買いに行ってみるかな。
夏越の祓え、の気持ちで。
この思考もまた、大人になってからの季節との向き合い方の中で自然とインプットされてきたもの。
心地良く生活する流れの中で、この習慣がいつの間にか1年間のルーティンのひとつとなっていたことに、ふと気づいた。
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