見出し画像

生きていてほしいだけ

今朝、同僚の彼女が 激しく咳き込んだ。

激しい咳がおさまらず、嘔吐きながら洗面所へ駆け込んだ。

ただならぬ雰囲気で、その場にいた数人で様子を見に行くと、

涙目になりながら、「大丈夫です。。。。大丈夫です。。。」と

必死に呼吸を整えようとしていた。

 時間をおいて、正気に戻った彼女は

「新しく変わった薬が あわなくて。。。。」と、か細く、

 消え入りそうな声で言った。

 彼女からそんな言葉を聞いたのは、初めてだ。

 何もできずにいた私を 置き去りにして、

 すみません、大丈夫です、と言い残し、

 笑顔で、彼女は自分の席に戻っていった。


 もやもやした気持ちのまま、デスクに戻ったとき、

 私は、ハッとした。

 彼女は、数年前、手術をした。そのことを、すっかり忘れていた。

 手術は成功したが、まだ、彼女は病と闘っているのだ。

 普段は、みんなと同じ仕事量をこなし、子育てに一人で奮闘する彼女は、

 まわりに弱みを見せることはない。

 努めて明るく、気丈に振る舞う。生徒に対しても、決して弱いところを

見せない。

 だから、私たちは、彼女が 「私たちと何も変わらない」と

錯覚してしまうのだ。

 今、こうして一緒に働いている彼女が、病魔に再び襲われて

 二度と会えなくなるのではないか。

 病に打ち勝つことのできなかった、私の母のように。

 そう思ったら、私はその場から動けなくなってしまった。

  まるで、足下がガラガラと崩れてしまったかのような、恐ろしい感覚に

襲われた。

 「とにかく、生きていてほしい。」

 今まで、彼女に感じたことのない、奇妙な、強い感情。

 言葉にはできないけれど、

 誰かに対して、そんなことを思ったのは いつのことだっただろう。


 好きでも嫌いでもない、仲が良いわけではない、

 ただ、一緒に働くだけの同僚かもしれないけれど、

 でも、彼女には ただ、生きていてほしい。


 何年か後に、ばったり会ったときに、

 ちゃんと、生きていてほしい。

 がんばりすぎないで、ずるがしこく、

少しくらいダメな人になっても

いいから、

 長生きしてくれよ。


  彼女の透き通った、良く響く授業の声を、

 雨の日の廊下で ぼんやりと聞きながら、

 私は 窓越しの空に ひっそりと祈るのだ。




この記事が参加している募集

#スキしてみて

526,258件

サポートありがとうございます。頂いたサポートは、地元の小さな本屋さんや、そこを応援する地元のお店をサポートするために、活用させていただきます!