【短編小説】愛しき夢の砂粒
僕は夢を書き記すのを諦めた。夢はまるで、砂粒たちの集まりだ。夢に起こされてあまりにも早く来てしまった朝に、目をぱちぱちさせてから枕元の端末を手に取り、寝転んだそのままおぼつかない指で画面でメモ帳のアプリを開き頑張って指を滑らせても、そこで文字に翻訳される間にも、夢の粒々はさらさらと過去に向かって零れ落ちてしまう。それがたとえ、鮮烈な夢だったとしても。
おそらくそれは、そんなものに耐えられるだけの精神を、そして身体を、人間は本来宿していないからなんだろう。「鮮烈な夢」とさっき僕は言ったけれども、実は僕の経験したそれは大したことがなくて、本当の「鮮烈な夢」を、僕は見たことがないのだとも思う。
数年前に、ネットゲームを通して知り合った、まだ二十歳そこそこの友達が亡くなってしまったことがあった。僕は当時似たような年齢だったしもちろんショックを受けたのだけれども、それ以上に、彼女があるインターネット掲示板に書き残した、彼女の「夢」のことを、僕は未だに忘れることができない。
彼女は、恐ろしい夢を見た。見てしまった。どうやら処方された薬をたくさん貯め込んでいて、それを一気に酒とともに流し込んだ結果、自分が何か恐ろしいものに追われて、追われて、暗闇の底に落ちてもさらに追われ続けて、砕け散る程に追われるような、そんな恐ろしい夢を、数時間ではなく、二日間くらいぶっ通しで目覚めることなく見てしまったらしい。
そして、元々壊れたようでも何となく保っていたものが、本当に壊れてしまった。その傷ついた心身を持ちつつ、目覚めてからの世界を過ごすことに耐えられない程に。そして彼女は、それから数ヶ月後、この世界から確実に去ることを選んだ。
僕は彼女に会ったことがなかった。でも、友達だった。
僕と今でも仲の良い、もちろん僕が実際に何度も会っている僕の友達は、そのころに彼女に会ったことが何度かあったらしい。幼い顔で、いつも可愛らしいフリルたっぷりの服を着ていて、まるで中学生か高校生くらいに見えた……何と言うか、二十歳を過ぎていると知っていても、その姿で煙草をふかして大笑いする姿は、この世界とちぐはぐに見えた、と。確かに、いつもグループで会話していたときの彼女の声は、いつも子供のように高く、そして笑い声は幼い悲鳴のように僕に響いた。
僕も知っていたけれども、彼女は、いつも男に依存していた。たくさんの男に依存し、愛されたいと望んでいた。そして、たくさんの男が彼女について回った。彼女が本当に愛されたのか、そしてその都度満たされたのかどうかはわからない。
今でも遺っている彼女の引っ掻き傷のようなたくさんのつぶやきに、その彼女の願望が刻み込まれていた。アイコンとヘッダーは鮮烈な赤色をたっぷり吸い込んでいて、そのつぶやきを見る者にまたさらに何かを伝えたそうにしていた。僕はそれを真正面から受け取りたくはなかった。
先程言った僕の友達が、彼女と当時どういう関係だったのかは、「彼女と友達だった」以外には詳しくはわからないし、今も昔もずっと、それを知ろうとは僕は思わない。もちろん彼は僕と同様に、彼女がこの世を去ったと知ったときにかなりショックは受けたものの、特に取り乱すといったことはなく、それなりに彼女を弔い、日々を過ごし、そして大学を卒業して就職した今、こんなご時世の中で在宅勤務をしながら仲良く暮らしている女性がいる、それが答えだと思う。そうできなかった男たちが、また女たちが、当時はたくさんいたし、そしてそれをきっかけに人生を変えてしまい、僕の観測範囲から離れるケースもあった。
僕はそんな彼女の生活の一部になって、自らが消費されてしまう人生を歩むことが嫌だったし、怖かった。だから、最初から最後まで、きっぱりその線は引こうとしていた。
けれども、彼女が魅力的だったのも事実だった。それは特に性的な意味でもなく、彼女は頭の回る、話の大変面白い、人間的な魅力の持ち主だった。特に、彼女があの夢に追われて壊れてしまうまでは。
だから、彼女にたくさんの男たちがついて回るのも納得だったのだけれども、それはそれとして、僕は取り込まれないように、あくまで「友達」であろうとした。そして、彼女もそれを察していた。
そういう理由もあって、僕と彼女とは、ほとんどグループでやり取りをしていただけだった。一対一で彼女とやり取りしたことは、僕は数回しかない。
そして、彼女がその夢に壊されてからは、一対一でやり取りしたのはたった一回だけだった。それも音声でなく、文字とスタンプだけのメッセージだ。彼女はスタンプを好まなかったから、ほとんど文字でのやり取りだった。
彼女自身が壊れてしまったその夢をどうやら彼女が書き記したらしい、その場所をある共通の友達に教わり、僕がその長ったらしい内容を全て読んでから、数日が経っていた。
彼女の記した夢は、実に荒唐無稽な内容だった。展開が滅茶苦茶で、飛び飛びで、その、小説としても漫画としても、とても成り立たないようなものだった。だから、匿名掲示板に書かれたそれは、当然のように荒らされていた。
ただ、彼女自身は必死に記そうとしたらしい。荒らしに負けずにと言うより、彼女自身が荒らしのように戦いながら書き続けていた。あえて匿名掲示板に書いたのも、反応が欲しかったからなのだろう。生きたかったのか、ただ見て欲しかったのか、それとも、遺したかったのか。
僕だって、その内容がどこまで本当かはわからない。けれども、それから彼女が壊れてしまったという事実とは、それはどうにも反しないものだった。僕は想像してみた。そのような夢に、実際に迫り来られて、どう転んでも奇妙奇天烈かつ真っ黒な展開が重ね重ね待ち受けていて、そして、そこからなかなか目覚められず、逃げられないとしたら。悪夢にうなされて目覚められるのは実に幸運なことなのかもしれない。
彼女との僕との最後のやり取りは、その夢についてが主だった。あれは彼女自身も、僕に伝わるように、もちろん他の知り合いにも伝わるように考えていたはずだった。そういうふうに書かれたものだ、と僕は理解した。そういった彼女ならではの悲鳴でもあるとも思った。
それに加えて、だ。人間は実際につらい体験をすると、傷つき、生活に支障をきたすまで壊れてしまうことがままある。そして、それとは別に、バッドトリップなんていう言葉がそれなりに昔からある。主に薬物からの幻覚で良からぬ方向に旅してしまうことだ。おそらく彼女には、これらが揃ったんだろう、と僕は思った。目覚めることの許されない悪夢に追われた、その恐ろしい事実が、彼女を壊した。
彼女の生い立ちや生活はそれなりに知っていたし、僕は、そのとき、僕と会話をしている「今の彼女」を知りたかった。だから、当時の僕は、彼女にその夢の話を、彼女が書いたものを読んだ話を、そしてもし同じものに向き合ったとしたら僕は壊れてしまうと思う、という旨を、直接振った。
それまでたわい無い話を壊れたように繰り広げようとしていた彼女の口調が、急に引き締まり、僕の知っていた彼女に戻ったかに思えた。
彼女はメッセージに綴った。
「そうなの あれからわたし頭悪くなった」
「たし算もあんまりできなくなったし」
「かんたんな漢字も たまにわからない」
僕は彼女とやり取りをしたアカウントをそのまま今も使い続けて生きているから、そこに今でもそのままある、これに間違いはない。
そうして綴られるものは、その、壊れる以前の彼女のものと同じである気が当時の僕はしたけれど、以前よりも明らかにやり取りが遅くなっていた。彼女のことだから、わざとそうしていたのかもしれないが、僕たちの間でそこに特に理由があるとも僕は思えなかった。
彼女は、少し考えると疲れてしまうようになったと言った。だから、そのときの僕は、その後に五分も経たずにやり取りを終わらせた。それが僕たちの最後になった。
僕も彼女と同じく、自分の親とはかなりうまく行っていなかった。僕は今もそうだ。親と激しい喧嘩をしながらも何とか頑張って距離を置いている。一人暮らしで自分の稼ぎで、自由に生きることの喜びをやっと覚えた。たとえ世界がこんなふうになっても、まだよくわからない予防接種を受けて数日熱が上がっても、口元を封じられて暑苦しく息苦しくても、もしものときに様子を見てもらえる人が周りにいなくても、僕はまだ、自由で幸せだ。
まだそんな世界でなかった当時、彼女は僕のそこに付け込んで来そうで少し恐ろしくもあったけれども、お互いの境界線がわかり合えたころには、それをわかった上で話すようになっていた。グループでの会話でも、一対一でも。もちろん彼女はたくさんの男を連れ回していたし、僕は僕で恋人がいて、そしてしばらく経ったら別れたり、新たな恋人ができたり、何となくだったり本気で愛したり、それを逃げ道としていたかもしれなかったり、そんなふうに生きていた。
そんなことも物ともせず打ち破りそうな、なりふり構わない捨て身の強さが、当時の彼女にはあったから恐ろしい話だ。
そして今では、その、なりふり構わなかった捨て身の彼女が、親の作った囲いから巣立ちたかったはずの彼女が、歳を重ねることに耐えかねて逃げて壊れてしまったのに対して、僕がそれなりにうまくやって親から離れることに成功し、大人としての自分を受け入れ、自由をこうして寝転びながら感じるのも、皮肉なことだ。そしてまた、順当でもあることなんだろう。
何が正解かなんてわからない。特に、こんな世の中なんだから。生き延びていることが正義か否かも、わからないし、量れない。
ただ、悪夢から覚めることのできるのは、僕のような、特に何かを頼りにし過ぎずに生き延びている人間の特権なんだろう。頼りにしすぎないから、今日も悪夢からきちんと目覚めて、それを書き尽くせることもなく、こういった思いを馳せている。本当に、いいことなのか、どうなのか、全くわからない。
這い出てゆっくりカーテンの外を覗くと、曇った空が白みを増してくる。どんな形であれ、僕には朝が来る。
僕は夢を書き記すのを諦めた。夢はまるで、砂粒たちの集まりだ。僕をさっき目覚めさせた僕なりの鮮烈な悪夢はさらさらと消えて、思っていたより早く来てしまった休日の朝にたまらず、僕は大きく部屋の空気を吸い込む。夢の砂粒は零れ落ちてもうほとんど残っていない。その儚さと愛しさに安心してまた薄い毛布の中に潜り込み、枕元に端末を置いて僕はもう一度目を閉じる。
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