見出し画像

7. オランダ移住の起源:フリーターの起業計画

高校を中退し、現役で大学に合格、約1年のアメリカ留学を終え、その後就職もしないまま2010年に大学を卒業をしました。

卒業した3月は別に何ともないままに過ぎました。
ただ、4月になり、周囲が"入社式"だの、"新入社研修"だの言い出した頃に少し焦りがありました。...と言っても今更焦っても仕方がないのですが。

「あ、やっちまったかも。私ここからどうするんだろう」
と、心のどこかで不安が渦巻いていたのでした。

日本では"新卒"というブランドがとても重宝されます。
そして、当時は私のように大学卒業時に就職が決まっていない人間は卒業後、"既卒"と呼ばれるようになり、社会からは"お古"のような扱いを受けることになりました。

私自身「卒業したてホヤホヤだから何なの?」と思っていた訳ですが、就職活動の流れと同様、私がそう思ったところで私が"既卒"であることには変わりなく。
「あぁ、私は大学を卒業してしまっただけに"古い"という感じになるのか」
というのを実感していました。

当時はリーマンショックの直後ということもあって、就職活動は困難を極めていた時でもあったので、"新卒"や"既卒"といったものを大切にしなければいけない。と思っている学生たちの間では"就職浪人"なんていうのもありました。
つまり、経済の打撃を受けてしまったがために就職活動がうまくいかなかった...ということで、"新卒"としての扱いを受けるために、わざわざもう1年大学に籍を置くのです。
実際にそういうかたちで来年度の"新卒"を狙う学生はそれなりにいました。

さて、私はというと、卒業後は派遣登録したり、アルバイトをしたりしながら、日々を過ごしていました。
しかし、何をしても「こういう仕事に熱意を持って打ち込めるかというとちょっと...」という感じで、「これだ!」という仕事に出会えずにいました。

そして、そのうち「これだと思える仕事に出会えないのであれば、自分で何かを作ってしまえばいい」と思うようになったのでした。

実は学生の頃から、デール・カーネギーや日本の起業家たちの本を啓発本代わりに読んでいた私はどこかで"起業"というものに興味を持っていました。
しかし「一体何で起業したいのか...」そこが絞れず、行動を起こせずにいたのです。

そして、私は最終的に「何で起業するにしても、起業するとはどういうことなのかを見て、知って、学びたい」と思うようになりました。
思い立ったが吉日。
私はすぐに京都で起業した人たちや、ベンチャー企業を調べ、「おもしろそう!」と思えるある企業にたどり着いたのです。

そして早速、自分の現状と、学生生活を終えて何故今この状態に至ったのかを書き、社長の側で鞄持ちから始めることはできないか。という内容のメールを書きました。

私がメールを送った先の企業の社長は、学生の頃に会社を立ち上げ、京都を世界へと発信するための、様々なコンテンツ作りを行っている。ということでした。
それこそ、私が興味を抱いていた"企画"や"イベント"なども手掛けている企業でした。

社長からの返信には、
「面白そうですね。是非会いましょう」
との文字。

正直、「え!?会ってくれるんだ?!」という感じでしたが、
その後、私はその社長と会うことができ、鞄持ちをさせてもらいつつ、企画営業に携わらせてもらいながら成果報酬というかたちで席を置かせてもらうことになったのでした。

どこの馬の骨かわからない私を側に置き、社長は自らの営業先に私をどんどん連れて行ってくれました。名刺を作らせてもらい、名刺をもらったらどうするのか、どんな風に営業をかけ、営業先に出向き、その後どのようなフローがあって仕事に結びつくのか...
時には社長が私にビジネスについて講義をしてくれることもありました。

私が身を置かせてもらっていた企業の社長は、私のイメージの"社長"とは異なり、きちんと足を使い、社長という立場でしか出来ない仕事もしながら、社員と同じ仕事もやっていく...という方でした。
自分的には"仕事の仕方"というよりは"仕事に対する姿勢"をたくさん学ばせてもらったような気がします。

そして、今思うに私は、
"どういうマインドを持って働くことが望ましいのか"
"常に新しいことにチャレンジする気持ちがなければ企業成長は見込めない"
"リスクがあっても、長期的成長を見て目前の決断を行わなければいけない"
"惰性で走ると確実にスピードは落ちる"

...というような、ここには書き切れないほどの"生き残りをかける企業の必死さ""人が、企業が成長するために必要なマインドや仕事の仕方"のようなものを学びました。
これは教員として働いていた時代も、そして今も経験として自分の中に強く残っています。

そんな働き方をしていた私ですが、もちろん成果報酬のため、本格的な企画営業をしたことのない私にとって新規開拓だけでは大きな収入に繋がらず。
当時はUNIQLOでアルバイトをしたり、別の派遣会社の仕事をしたり、時には英語の個人レッスンを提供したり...という感じで毎日を過ごしていました。

そしてついに、私にとって人生を決定づけるような決断をする時がやってきたのです。

それは企画営業で営業先と話をしたり、英語を教えている中で、
「学生時代にもっと英語を勉強しておけば良かった」
という声があまりにも多い。と感じ始めた時でした。

自分にとっては"英語"というのは相当身近なものなのですが、周囲にとっては"Hi, how are you?" と話かけることさえ難しい。
もちろん英語は言語ツールであるため、話せるだけでは意味がないのですが、そもそも"話せるだけ"をこんなに強く求めている社会人が多くいること。
(この考え方自体に少し問題があるとは思いますが)

そして、それらの人たちが社会人として忙しく働く中で「英語はもう無理なんじゃないか」と諦めてしまう。
「やっぱり、学生の時にもっと英語をやっておけば良かった」と後悔する...

あまりにも安易かもしれませんが、
「それじゃあ、公教育に戻って後悔する人を減らせばいいのではないか?」
これが私が行き着いた答えでした。

街を見渡せば英会話塾は数多とあるのです。
それなのに、数学や理科、社会の塾はほぼないに等しい。
私がアルバイトをしていたUNIQLOでは店長がBerlizの英会話講座を受講させられていました。それでも、彼らの英語力は全くといって言いほど伸びているとは言えませんでした。

その原因は、学生の頃に生まれた"英語アレルギー"のようなものではないか。
多くの社会人にとって「必要そう」と思われている英語は、実際のところ昇進やプロモーションの材料として、当時は引き合いに出されていたにも関わらず、多くの人がそこに費やす労力やコストを払えずにいたのです。

....その原因は、やはり学生時代の"英語に対する苦手意識"にあるのではないか。

あまりにも単純すぎる考え方かもしれませんが、当時の私は自分が"英語好き"を増やす人間になりたい。とにかく、学生時代の"英語アレルギー"を少しでも減らす人間になりたい。
「もっと英語を学んでおけば良かった」ではなく「英語を学んできて良かった」と思える人を社会に輩出したい。

それは、私が留学中に多くの素晴らしい人々に出会い、人生を変えてくれたから。
英語という、無数にある中の一言語が、私の世界をとてつもなく広めてくれたから。
それが背景にあったからだと思います。

そして、当時とても良いタイミングで友人から、
「私の恩師が行ってみてって言ってきたセミナーがあるんやけど...現職教員の高校教員が、教職課程の生徒に向けて、教師という仕事とか生き方について熱く語ってくれるらしいねん。私1人で行くのはちょっと気が引けるから、一緒についてきてくれへん?」
という誘いをもらいました。

結果的に...ですが、私はこの時、熱弁してくれた先生の在職する高校の隣の高校に勤務することになり、誘ってくれた友人も、私も、教員になったのでした。

それから私は、起業の道を諦め、大学の教職センターに相談に行きました。
すると、そこにいた先生から、
「次の4月から常勤講師で働ける高校があるわ。やってみるか?」
と、すぐに声をかけてもらい。

次の4月から教師として働くことが決定したのでした。



私たちの活動内容に賛同いただける方々からのサポートをお待ちしています。ご協力いただいたサポートは、インタビューさせていただいた方々へのお礼や、交通費等として使わせていただきます。よろしくお願いいたします!